前回、前々回に引き続き、大阪市教育振興基本計画の改訂素案に対して、私が送ったパブリック・コメントの「その3」を、こちらのブログに掲載します。前にも書いたとおり、もともとフェイスブックにこの「その1」から「その3」までを書きこんでいて、パブリック・コメントで送信したものからフェイスブックに転載するときに、若干、誤字脱字等の修正を行いました。原文から表記が変わっているところがありますが、趣旨は同じだという話は、これもまた、前回・前々回のこのブログの記事と同様です。
また、改訂素案については下記のページを見てほしいということも、前回・前々回と同様です。
http://www.city.osaka.lg.jp/templates/jorei_boshu/kyoiku/0000194120.html
では、以下の内容が「その3」です。これにて、コメントは完結です。
<以下、パブリック・コメントの「その3」>
第2章第3の「2 グローバル化改革」について
○「小1からの英語学習」=「グローバル化改革」という発想自体を問い直すべき。もっと「大阪らしさ」を活かした改革の道があるはず。
大阪市内には多様な国・地域から移り住んできた人たちが暮らしている。英語だけでなく、中国語、朝鮮語、スペイン語、タガログ語、タイ語、ベトナム語等々、いろんな国・地域の言葉を扱える人々が暮らしている。
もうすでに、大阪市自体がグローバルな社会構造の中に位置づいており、世界のさまざまな国や地域から移り住んできた人たちと共に生きる社会を、この大阪において作り上げていく必要に迫られている。そういう認識に立てば、英語の学習以上に、「この大阪の街で外国にルーツのある人たちと共に暮らしていく」という体験を子どももおとなも豊かに積むことこそ、まさに「グローバル化改革」といえるものであり、また、「子どもの権利条約」その他の国際人権条約などの趣旨にも沿った大阪市独自の教育と言えるものである。そして、そういう体験の基盤にたっての外国語学習でなければ、本当の意味での「グローバルな社会で活躍する人材」など、生まれようもないと思うのだが。
第2章第3の「3 マネジメント改革」について
○この「マネジメント改革」それ自体が学校現場の創意工夫や改革の意欲を削ぎかねないという、そういうことへの配慮がまるで見られない。
これは教育行政・学校活性化・職員の3つの(基本)条例制定以来のことであるが、すでにさまざまな学校現場のやる気を削ぐような教育改革を大阪市ではすすめてきたし、教員の自主的な研修活動を阻害するような対応も教育行政によってとられてきた。
それこそ、「がんばる教員個人やグループの主体的な研究活動を支援」するというのであれば、なぜ教職員組合の教研集会の会場に市立学校を使わせないのか。教員の各種自主研究団体の活動の時間を、なぜ勤務外でなければいけないようにしているのか。すべて、ここで言うことと逆ではないのか。さらに、校長などの管理職の多くを外部から任用する制度にあらためることで、現場教職員と管理職層の意思疎通を難しくしている面があるのではないのか。そして、上記のような条例制定などの一連の動きが、大阪市の教員採用試験を受験しようとする人々の意欲を萎えさせている面があるのではないのか。
誠にもって、ここでいう「マネジメント改革」というのは、この改訂素案をつくる人々にとって都合のいいマネジメントを学校でやりたいというだけ。むしろ、この改革をやればやるほど、学校現場では「笛吹けど踊らず」ということにもなりかねない。そうなれば管理職層などの権限発動で、ますます命令でなければ学校が動かず、学校はぎくしゃくするだけに終わるだろう。
第2章第3の「4 ガバナンス改革」について
○そもそも「学校選択制」導入し、地域社会の人々や保護者のつながりを崩しておいて、「学校を支えてくれ」という話はなりたつのか??
本気で大阪市の教育振興を考えるのならば、そういう人々のつながりを破壊する施策を止めることこそ、まずは考えるべきである。
この改訂素案では、保護者や地域社会に開かれた学校を作るというのだが、そもそも「学校選択制」は保護者の間の人間関係を崩したり、地域社会の人々と学校との結びつきを混乱させかねない施策でもある。そのことの危険性をよくわかっているのだろうか、この素案作成者は?
何年、何十年もにわたる形で、地元に暮らす人々が我が子を地元公立校に通わせ、そこに通った子どもが成長しておとなになり、また我が子を地元公立校に通わせ・・・という形で、地域社会の人々と学校との関係は創りあげられてきた。そういう関係を、学校選択制は、保護者と子どもに学校を選ばせるという形でたやすく壊すことができる。そのように混乱している保護者や地元住民を前にして、はたして保護者や地域社会に理解を得ての学校づくりなど可能なのか?
このことは、公立幼稚園の民営化や公立高校の再編案についても言えることである。公立幼稚園にせよ、公立高校にせよ、大阪市内でそこに子どもを通わせてきた人々、通ってきた人々が長年にわたって培ってきた人間関係があるはず。その関係を壊すのは比較的たやすいが、それを再構築することは途方もない手間暇と時間がかかるのではないのか。そして、その長い年月をかけて培ってきた人間関係こそが、実は大阪市の教育を支えてきた土台なのではないのか。そこを壊すような教育施策の実施をまず止めることこそ、大阪市の教育振興につながるのではないのか。
第2章第5の「5 学校サポート改革」について
(1)「問題行動への毅然とした対応」で挙げられている提案は、すでに実施済みのものばかり。まだ十分にやっていないのは、「学校における子どもの権利保障の充実」ではないのか?
そもそも、たとえば出席停止措置の活用や警察・こども相談センター(児童相談所)との連携、問題が生じたときの弁護士・臨床心理士などの第三者チームの派遣等、この改訂素案であらためて「問題行動への毅然とした対応」として提案されていることは、すでに文科省が生徒指導施策でこの間、十数年にわたって実施してきたものばかりである。にもかかわらず、学校内外での子どものいじめ、自殺等、さまざまな問題が生じている。そのことについて、改訂素案を作った人たちはどのように認識しているのか。過去の施策の何が不十分でここに至ったのか、その検証がまずは必要なのではないか。
また、このような提案はいずれも「問題が起きたあとの対応」に関するものであって、子どもたちの学校生活全般にわたる不安や葛藤、緊張など、問題が起きる背景にある要因に目を向けるものではない。それこそ、学校教育のあらゆる場面における子どもの権利保障の充実こそ、今まで一番取り組まれてこなかった施策ではないのか。
なお、改訂素案における「基本となる考え方」で、「一人一人の子どもを、個人としての尊厳を重んじ、その意見を尊重するとともに、自由と規範意識、権利と義務を重んじ」というのであれば、そもそも、大阪市の生徒指導施策においても、さまざまな場面で「子どもの意見の尊重」から取り組みを開始すべきであろう。また、出席停止措置や警察との連携強化を図っていくのであれば、その前提として、たとえば警察の捜査などに対する子どもの防御権(不利な自白は強要されない等)や、当事者である子どもの意見聴取などの適切な手続き保障の原則など、法的観点からの子どもの権利学習が、子ども及び学校の教職員、教育行政の関係者などに必要不可欠であると考える。しかし、この改訂素案には、そのような発想は全くない。
(2)「学校運営における課題の解決を支援します」と言う前に、「課題ばかりを持ち込む教育施策そのものを止める」ことが必要では?
改定素案には「学校は校務事務の増加に伴い日常的に繁忙な状況」とあるが、その「日常的な繁忙」の多くの部分が、この間導入されている数々の教育施策から生じている部分があるのではないのか? だとすれば、その数々の教育施策を「止める」ことこそ、「日常的な繁忙」から解消される手っ取り早い道ではないのか?
学校現場の教職員が目の前の子どもや保護者、地元住民と向き合うこと、日々の教育実践とその準備に最大限のエネルギーを避けるように、まずは大阪市教委及び大阪市長が「余計な教育施策の提案をしないこと」を、きちんと教育行政基本条例等の趣旨に則り、その趣旨に沿って「教育行政が学校現場に対して余計なことをしないことの意義」を、教育振興基本計画に位置付けていくこと。これが、「学校運営における課題の解決」の「最も大きな支援」になりうるのではなかろうか。
(3)「学校教育以外でも多様な学習機会を利用できるよう支援します」というのなら、バウチャー制度の導入以前に「市政改革プラン」自体を見直すべきである。
それこそ、この数年の間に、市立青少年会館12館の廃止や市内の児童館・トモノスの廃止等、子どもが学校外で利用可能な公的施設が次々に統廃合されてきた経過がある。そこにもってきて、「市政改革プラン」でさらに、さまざまな子ども関連の施策が打ち切られたり、縮小されようとしている。そこを放置したままで、バウチャー制度だけ導入したところで、やはり大阪市の子どもにとっての学校外での学習機会、体験活動の機会は乏しくなるのではないか。「市政改革プラン」自体を大阪市の教育行政基本条例の趣旨などから見て、もう一度見直す方が先決であろう。