できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

2011年3月11日を境目として

2011-03-27 20:28:02 | いま・むかし

2011年3月11日(金)の午後に東日本の太平洋岸を襲った大地震と大津波、そしてその後起きた福島県にある東京電力の原子力発電所の事故発生をきっかけにして、少なくとも私のあたまやこころ、からだのなかで、今、何かが大きく変わろうとしています。

その変化がどういうものなのかは、まだ自分のなかでもよくつかめません。それが見えてくるのは、きっとこれから先。1ヶ月先なのか、半年先なのか、1年先なのか、5年先なのか・・・・。とにかく、「これから先になって、どんな変化なのかがわかってくる」としか、今はいいようがないところです。

ただ、はっきりしていることが、いくつかあります。それは、こんなことです。

その1:この2011年3月11日を境目として、この日本社会で生きていくうえで、マスメディアや政府・自治体の流す情報や専門家の言うことに対して、それを自分のあたまとこころとからだで、一度、きちんと疑って、検討してから受け止めていくような、そんなセンスが私たちには必要とされているということ。あるいは、「今までの常識」が通用しないような状況が起きてしまっている以上、「私たちが今後、この日本社会で自分らしく生きていくうえで、何が最も大事なのか?」という次元から物事を考え直し、ひとつひとつの取り組みを立ち上げていくしかないのではないか、ということ。

その2:少なくとも、関西経済の活性化などの観点から、大阪湾岸に政治や経済の拠点施設を移そうというような、そんな構想は、全部「一から白紙にして考え直したほうがいい」ということ。それこそ、神戸空港や関西空港などは、大津波が襲ってきたときに、どんな状態になるのだろうか? あるいは、防災という観点から考えてみた場合、液状化したり津波がやってくる危険性のあるところよりも、もっと地盤の安定したところに拠点がなければ・・・・。

その3:少なくとも、「一極集中」型の組織は、一見効率がよいように思われるが、その「一極」に大地震や大津波などが押し寄せて、そこがダメージを受けてしまえば、何もかもがダメになるリスクも抱えているのではないか、ということ。そのことを前提にして考えれば、「一極集中」型の組織よりも、できるだけリスクを分散させたり、現場が現場の判断で独自に動ける・ひとりひとりの個人が自分の判断で動ける余地を残していくような、「分権」型の組織をつくっていくほうがいいのではないか、ということ。

そんなことを、今、思い始めました。

<追記> ひさびさの「つづりかたきょうしつ」

「たたかうための言葉」ですか・・・・。これを見つけるのは、なかなかの難問です。

ただ「たたかうため」ではなくて、「自分の思いを確かめて、その思いを他者につたわるためにつむぎだす」ための言葉を見つける作業は、まずは「本(誰かの書いた文章なら、本以外でも可)をしっかり読むこと」からはじまり、それを読んで感じたことを誰かと話し合うところからはじまるような気もします。その上で、話し合って感じたことを書いてみる。そうすると、何か文字になって整理されたものが出てくるようにも思います。

と同時に、「自分の思いを確かめて、その思いを他者につたわるようにつむぎだす」という営みそのものが、ある社会情勢の下では「厳しいたたかい」になることもあるように思います。それこそ、原発の危険性を今まで訴え続けてきた研究者などにしてみると、原発設置推進を唱える電力会社や、これを支える政府、マスコミなどとの「たたかい」のなかで、自分の思いや考えを確かめ、それを他者に伝えようとしてきたわけですからね。

だから要は「自分が誰に今、何を伝えたいのか・・・・」を、誰かの書いた文章を読んだり、誰かと話をしたり、誰かに向けて書いてみながら、自分なりに見つめる作業、これが一番大事なのではないか・・・・と思います。

あまりうまくいえませんが、今日はこのあたりで、ひさびさの「つづりかたきょうしつ」終わります。

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阪神淡路大震災関連の本3冊の紹介

2011-03-24 19:15:05 | いま・むかし

久々のブログ更新になります。

ひとまず、今日のところは「本の紹介」だけしておきます。(もうひとつのブログにも書きましたが、現在、私のブログの「本の紹介」機能が不具合を起こしていて、OCNのサポートにて調査をお願いしているところです。ですから、直接ブログの記事として、本を紹介します。)

いずれもこのたびの東日本の大震災に際して、参考になりそうだと私が思った本です。研究室においてあった阪神淡路大震災関連の本3冊を、以下のとおり紹介します。

ちなみに『学校防災』は、阪神淡路大震災当時、神戸の公立学校で避難者対応などにあたった教員の手記を、地元の教職員組合がまとめたものです。学校再開を急ごうとする教育行政側と避難者との間で悩み、苦しんだ教員たちの思いが、率直に語られています。また、校舎が震災によりつぶれたり、校舎内に避難者を多数抱えるようになったがゆえに、学校の教育活動にどのような制約を受けたのかも、ここに教員の立場から綴られています。

次の『黒い虹』は、阪神淡路大震災によって親を亡くした子どもたち(震災遺児)や、その子どもたちとともに暮らす家族(祖父母、もうひとりの親、親戚など)に、あしなが育英会の学生ボランティアがローラー作戦でインタビューを行った記録をまとめています。震災遺児や遺児とともに暮らす家族の苦悩が、この本には率直に綴られています。当時におけるひとり親家庭への支援施策や、家族と離れて暮らす子どもへの社会的支援施策の弱さが、震災遺児たちに重くのしかかっていることがわかります。

最後の『その時学校は』は、PTAの立場から、阪神淡路大震災当時の神戸市内の学校の様子などをふりかえったものです。内容的には『学校防災』と重なるところもありますが、『学校防災』よりも行政サイド寄りの見解を示していると思います。ただ、それでも、震災が学校や子どもにもたらした深刻な影響は、この本からも伝わります。

以上3冊、まずは紹介しておきます。何かの参考にしていただければ幸いです。

学校防災―神戸からの提言 学校防災―神戸からの提言
価格:¥ 1,529(税込)
発売日:1997-02

黒い虹―阪神大震災遺児たちの一年
価格:¥ 1,325(税込)
発売日:1995-12

阪神・淡路大震災その時学校は―検証と未来への提言
価格:¥ 1,300(税込)
発売日:1995-12

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現地に行かなくてもできることはあるはず

2011-03-15 10:16:58 | ニュース

どうしても今は、関東・東北地方を襲った大震災のことが気になってしかたがありません。もう一つのブログにも書いたように、できるだけ目の前の仕事と家事・育児・介護のことに専念しようと思っているのですが。

ただ、ツイッターなどを見ていると、「今すぐにでも現地にかけつけてボランティアを」というのは、避けたほうがよさそうに感じました。それよりも今、節電や募金への協力、救援物資の提供なども含めて、たとえば次のような形で、こちらでできるような現地への支援を考えたほうがいいようにも思いました。

(1)まず、被災地域に向かう警察・消防・自衛隊などの車両や、救援物資の輸送トラックなどの通行を妨げないこと。先ほどもラジオを聴いていると、九州や中国・四国地方からも高速道路を使って、警察・消防などの応援部隊が関東・東北方面に向かっているとのこと。関西圏の高速道路でこのような部隊の車両が通るときに、じゃましない。それが大事。

(2)次に、関東・東北の被災地から離れて(一時的なものを含む)生活再建に取り組む人たちに対して、各自治体で、あるいは各地域・民間団体で、どのような支援が可能かを考えてみる。要するに「東」から移ってくる人々の「受け入れ体制」を整えることだって、立派な支援だということ。すでにこの関西圏で、公営住宅への入居ができるように手配している自治体も出てきているようですが・・・・。

(3)とりわけ子ども・若者の生活という面でいえば、たとえば関西圏の大学に在学する・入学する予定の被災学生への生活支援をどうするか。奨学金支給や授業料減免、アルバイトや下宿の紹介、その他の生活面での支援といった課題があるはず。あるいは、このたびの被災により家族を亡くした子どもについて、社会的養護と教育、心理的ケアをどのようにすすめるかという課題があるはず。さらに、山村留学やホームステイなどの形をとって、一時的に関西圏に子どもや若者を受け入れるという方法だってあるはず。

ざっと思いついただけでも、こんな課題への取り組みが思い浮かびます。ほかにもいろいろと考えられるのではないでしょうか。

みなさん、少し、落ち着いて考えてみてください。被災地にいる人たちに対して、現地に行かなくてもできることはいろいろあるように思います。

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「ツイッター」を見ていて気づいたこと

2011-03-10 12:26:18 | ニュース

昨日、このブログに書いたことの続きです。その話をする前に、以下に示す青字で書いた部分を見てください。

朝日新聞に問う。在日朝鮮人が多く住む大阪の地において、拉致問題未解決、北朝鮮砲撃事件勃発という今の状況で、学校と大阪が共生できる具体的方策を提示せよ。子どもがかわいそうなんて、平松市長やその取り巻きが言いそうな無責任なサロン的会話をするな。

この言葉は、ツイッターで、2011年03月09日(水) 11:28:46に、橋下徹氏が発した「つぶやき」です。

正直なところ、ツイッターでの橋下氏の「つぶやき」は、「大阪維新の会」の代表としての発言なのか、それとも大阪府知事としての発言なのか、そこがよくわからない(これ自体、よく考えてみると、そもそも大きな問題のようにも思うのですが・・・・)。

でも、上記の「つぶやき」がもしも府知事としての発言であれば、これ、かなり問題があるのではないでしょうか。

おそらく、府知事としての彼は、朝鮮学校への補助金支給の問題について、「自分たち行政側が決めたのは補助金を出すか出さないかだけであって、行政側の決めた条件を満たさない朝鮮学校に対しては、その補助金を出さないことを決めただけだ。だから、これは府知事というか、行政サイドの裁量権の行使の問題なのだ」という説明をするのでしょう。

しかしよく考えてみたら、これって補助金をちらつかせつつ、「自分たち行政側の決めた条件を満たすかどうか」を「踏み絵」にして、相手に「言うことをきかせる」という、まさに「権力」の行使がむき出しになって現れている場面ですよね。要は、こちらから見れば、行政サイドが補助金と支給条件を使って、相手側を権力行使をちらつかせている、という風にも見えるわけです。

そして、そもそも大阪府知事選挙の時点において、彼にこういうことをすることを求めて、府知事に選んだのでしょうか? 彼を選んだ人々は「子どもが笑う大阪」というキャッチフレーズと、テレビに繰り返し登場する彼の明るいキャラクターが、何か停滞状況にある大阪を変えてくれるのではないか・・・・というような期待で一票を投じたのではないでしょうか。

一方、そもそも、今まで大阪府内において朝鮮学校が地域社会に存在し、一定、近隣住民と「共生」をしてきた事実を、彼はどう考えているのでしょうか? また、自分のとった措置が、その「共生」を壊してしまう危険性については、彼はどのように考えたのでしょうか?

あるいは、国家間の外交問題として拉致問題が未解決であること、近隣諸国における金曜関係の問題として砲撃事件があったことと、府内の朝鮮高級学校へ府が補助金を出さないということとの間に、どのような政策的な整合性があるのでしょうか?

すなわち、国家レベルでの外交において未解決の問題や緊張関係をはらむ問題を理由にして、地方自治体の長が、その自治体に暮らす住民である在日外国人に対して、なんらかの不利益措置をとりうる論理的な根拠は、いったい、どこにあるのでしょうか?

とりわけ、昨日もこのブログで書いたように、特に朝鮮学校を含む在日外国人の教育に対する日本政府の施策については、国連子どもの権利委員会の総括所見でも改善が強く求められているところです。そのような状況について、彼はどのような判断をしたのでしょうか?

そして、こうしたことに対する説明責任は、そもそも、大阪府知事の側にあるかと思うのですが。また、マスコミなどからの批判に対して「具体的な方策を示せ」という彼の反論の仕方は、まるで「八つ当たり」のような印象も受けます。

いかがでしょうか? このわずかな「つぶやき」を見ていて、私が感じたことは以上のとおりです。

ちなみに、大阪都構想になかなか納得しない平松大阪市長に対して、彼はツイッター上で、繰り返し挑発的な「つぶやき」をしているます。でも、平松市長側が「おとな」というのか、まともにとりあっていません。また、大阪都構想やこれに関する議論については、橋下氏や大阪維新の会側からの諸提案に対して、ツイッターを見ている限り、さまざまな異論・反論・批判が出ています。そのことも、あわせて指摘しておきます。

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国連子どもの権利委員会の第3回総括所見(政府仮訳)

2011-03-09 17:32:42 | ニュース

http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jido/pdfs/1006_kj03_kenkai.pdf

国連子どもの権利委員会が2010年6月、日本政府に対して示した第3回の総括所見は、上記のとおり、外務省のホームページで仮訳のPDFファイルを見ることができます。

そのなかに、パラグラフ72・73として、次のような問題点(懸念)の指摘と、これに対する勧告(政府仮訳では「慫慂」)が行われています。

72. 委員会は,中華学校、韓国・朝鮮人学校及びその他の出身の児童のための学校が不十分な補助金しか受けていないことを懸念する。委員会はまた,これらの学校の卒業生が,日本の大学入学試験を受験する資格がない場合があることを懸念する。

73. 委員会は,締約国に対し,外国人学校に対する補助金を増額し,大学入学試験へのアクセスが差別的でないことを確保するよう慫慂する。締約国に対し,ユネスコの教育における差別待遇の防止に関する条約への締結を検討するよう慫慂する。

ちなみに「慫慂」とは、インターネットの国語辞典によりますと、「そうするように誘って、しきりに勧めること。」(大辞泉)だそうです。勧告事項を「慫慂」と言い換えていますが、読みようによっては「慫慂」のほうが「勧告」よりも、「そうするように」と強くすすめられているようにも読みとれますよね。

このことをふまえて、次の新聞記事を読んでください。

http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110309/20110309026.html (橋下知事「補助金は出せない」 大阪朝鮮高:大阪日日新聞2011年3月9日付ネット配信記事)

なお、第3回総括所見の政府仮訳には、他にも日本の子どもの問題に関して重要な指摘・勧告があるはずですので、みなさん、しっかりと読んでください。

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「あるべき姿」と「現状」のなかで、どう動くか?

2011-03-05 18:01:01 | いま・むかし

今日は「つづりかたきょうしつ」の話ではなくて、もう少しちがった視点からの話を。

このところあちこちから講演・研修の依頼や原稿の執筆依頼が続いていて、本業の大学教員としての授業や研究、学内業務との両立に追われる日々が続いています。花粉症なのか、このところ鼻の具合がおもわしくないなかで、また、これに家事や育児・介護もプラスしてあるなかで、時間のやりくりに苦労しながらも、できるだけ依頼は引き受ける方向で考えています。

その依頼の多くは、たとえば大阪府内の各自治体で「これからの青少年会館、青少年教育施設をどうするか?」というテーマであったり、あるいは、何らかの形で学校内外における子どもの人権の保障、子どもの権利条約に関するテーマであったりします。そして時折、子どもの人権というテーマにひっかけて、子どもの虐待防止や社会的養護に関するテーマでの依頼が舞い込んでくることもあります。

そこで、研修や講演の場合、そういう依頼が来るたびに当然、これらが開催される「現場」に私は出向きます。そこは青少年会館だったり、市民交流センターや人権文化センターであったり、生涯学習センターであったりするわけですが。どちらかというと、まぁ、学校よりは生涯学習・社会教育施設が多いのが現状ですね。

そして、その「現場」に出入りして、子どもの権利条約の話や子どもの人権に関する話を私がすれば、当然、国際人権条約や日本の国内法の趣旨・理念や、子どもの人権論の領域での研究成果からすれば、「当然、あるべき姿はこうなるでしょ?」ということが、どうしても中心になってきます。

それがたとえば、子どもの権利条約31条の趣旨からすると、「文化的芸術的生活の権利」の保障という観点からすれば、今こそ青少年教育施設における体験活動の意義を位置付けないとダメだろうとか。あるいは、国連子どもの権利委員会の総括所見の趣旨からすれば、学校の教職員、保育士、児童福祉施設職員、教育行政や児童福祉行政の職員は当然のこと、スクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーにだって、子どもの人権に関する学習・研修の機会が必要だろう、とか。まぁ、こんな話になっていくわけですよね。

しかしながら、「現場」は「現場」で、たとえば自治体議会での来年度予算の編成に関する議事進行にあわせて、指定管理者制度をこの青少年会館に適用するのではないか、適用されたらこの施設、今までのとおり活動できるのだろうか・・・・とか。あるいは、「子どもの人権に関する学習・研修の充実」というけど、具体的にどんな講座や学習会を開いて、どんな層の市民に呼び掛けたらいいのか・・・・とか。そういう面で切実な思いを抱えていたりします。

そして、「理念とかあるべき姿はわかるのだけど、なかなか本庁(役所)はうんと言ってくれない」とか、「そういう方向性で動けたらいいのだけど、実際は、なかなか難しい・・・・」とか、そういう声が「現場」から私のところに伝わってきます。

でも、私はそこで逆に考えてほしいとも思うわけです。「実際はなかなか難しい・・・・。だけど、そういう方向性に向かっていくには、どうしたらいいのか?」とか。「なかなか本庁(役所)はうんと言ってくれない。だけど、理念やあるべき姿はこの方向だ。だとしたら、ここで何をすればいいのか・・・・」とか。

つまり、理念やあるべき姿と現状を比べてみる作業は大事なのですが、そのときに現状を基準にして理念やあるべき姿を引き下げるような観点に立ってしまえば、「そんなの、何もかわらないでしょう」と思うわけです。

このような次第で、私は理念やあるべき姿に関する議論は、現状を変えていく方向性を照らし出すためのものだと思います。また、「現状はなかなか厳しい・・・・」という話に対しては、「だから、どうしたいの? この方向性でものを考えることはいらないの?」と、私なんかは突っ込んで聴いてみたくなることもしばしばありますね。そして、「この方向性はいらない」とか「この方向性ではない」とホンネのレベルで思うなら、「では、どんな方向性がいいの?」と聴いてみたい。また、「この方向性を目指したいけど、ここで行き詰りそうだ」と思うのなら、その行き詰まりを打開する方策をいっしょに考えたい。そんな風にも思いますね。

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「つづりかたきょうしつ」その3

2011-03-02 21:14:24 | アート・文化

いきなりタイトルが「その3」になっていて、不思議と感じた方もおられるかと思います。ただこのテーマ、すでに過去2回、このブログの「追記」の形で書いていたので、その続きということで「その3」とさせていただき、独立してこれからも時々、書いておこうと思います。

過去2回「追記」で書いたときもそうだったのですが、このブログをよく見ておられるある方が、この「つづりかたきょうしつ」というテーマで書いている文章を、けっこう喜んで読んでおられるようです。これはたいへん、ありがたいことですね。

それで、前々からこれは思っていたことなのですが、各地で子どもの人権関連の市民運動ですとか、あるいは識字教室や子ども会、若者のサークル活動等々、学校の外での人権教育系の取り組みに関わっている人たち。こうした人たちを主な対象として、人権教育や子どもの人権関連の文献ですとか、人権関係の法や国際条約などをきちんと読み、それをふまえて自分たちの日々の活動や運動を位置づけなおすような文章を書く。あるいは、過去の活動や運動の記録・報告集などをきちんと読んで、それを参考にして、自分たちの今の活動の記録や報告を書いてみる。そんな感じで、「運動」に関わる人たちのための「読み書き教室」のような取り組みが、今、必要とされているのではないか・・・・。そんなことをこのところ、強く感じるようになっています。

研究者が研究者のために文献を読み、文章を書くトレーニングをする。そういう場は大学や学会などを中心に、いろいろあるでしょう。でも、たとえば市民運動の担い手の人たちが、自分たちの運動をよりよくするための「読み・書きの力」を磨く場というのは、案外「ある」ようで「ない」のかもしれません。

なにしろ、そういう運動のための「読み・書きの力」というのは、研究者にとって必要な「読み・書きの力」と重なる部分もありますが、やはりどこか「ずれ」があるのではないかな、と思ってしまうのです。たとえば国や自治体の行政だとか、国会や自治体の議会に対して、何か自分たちの運動の主張を訴えかけるような文章は、研究者が学会で自らの主張を展開するための文章と、どこか文章のスタイル、つまり「文体」が異なってくると思うのです。

おそらくそういう文体のちがいは、ひとつは「誰に自分の意見を伝え、わかるように書くのか?」という、「想定する読者のちがい」によって生まれてくるのではないかと思います。研究者相手に書くのか、行政職員や自治体議員を相手に書くのか、地元住民や支援者を相手に書くのか、自らの主張に反対する運動体にものを言うのか・・・・。それによって、文章の書き方は微妙に違ってくるでしょう。

また、それぞれの運動体の内部で、どういう議論を積み重ねていくのかによって、論理の構成や選ばれる言葉もちがってくるのではないでしょうか。それこそ、同じ団体のなかにもいろんなグループがあって、そのなかでの意見のすりあわせなどによって、ことばの使い方が変わってくることもあるでしょう。また、何か原案を検討する委員会などができた場合は、そこで意見をとりまとめする役の人と、そうでない人との間で、ある文書ができあがるまでにいろんなせめぎあいがあるでしょうしね。

あるいは、運動体の側から出す文章には、そこに当事者の熱意だとか願いだとかが強くこもっていて、そういう感情的なものを抑えて書く文章とはちがう何かが文体にもでるでしょう。そして、その運動体が出す文章には、その運動体を取り巻く社会情勢だとか、その運動体が背負ってきた歴史的な経過がいろんな形で詰まっているでしょうし・・・・。

このように考えていくならば、「研究者として文献を読み、書く」というのとは別に、子どもの人権や人権教育に関わる「運動」のメンバーとして文献を読み、書くというトレーニング。そういうことが、まさに「おとなのための学びの場」、運動にかかわるおとなのための「読み書き教室」として形成されることがあってもいいのかな・・・・。そんなことを今日、あらためて思いました。

もっとも、研究者が研究者を相手に読み、書く文章も、研究者間のいろんなせめぎあいのなかで生まれてくるものですし、行政の審議会や調査研究協力者会議などの文章も、それが出てくるまでのプロセスで、きっと内部でのさまざまなせめぎあいがあるのではないでしょうか。

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