昨日(10月27日)は、大阪の中之島公会堂にて、前川喜平さんの講演&平松邦夫さん、私の対談というイベントがありました。公会堂がいっぱいになるくらい、大勢の方に集まっていただいて、ほんとうによかったと思います。この場をお借りして、ひとことお礼申し上げます。
さて、ここでひとつ、昨日のそのイベントの様子について、私の立場からコメントをさせていただきます。
まず、こちらは昨日の中之島公会堂での前川喜平さんイベントの様子を録画したものです。冒頭2分程度、音声がでないそうですが…。あとの部分は大丈夫だと思いますので、よかったら見てください。
ちなみに、森友・加計問題の話をしたあたりから前川さん、だんだんノリノリにしゃべりはじめまして…。そのノリに輪をかけるように平松さんが質問等々を前川さんに投げかけていたものですから、私はあまりその流れを切らないように、「もっと、ふたりのおじさんを乗せていく。それで会場の雰囲気を盛り上げる」ようなトークをしています。
こういう市民集会の場で求められるトーク術と、学術的な研究の場でひとつひとつのことばの意味を吟味し詰めるようなトーク術とは、やはり、ちがいますからね。
特に昨夜などは「大阪の教育がこんなにひどい」「維新ってやっぱり公共的なものをこわしてきただけなのか」ということについて、参加者の理解を深めていただく(「やっぱり、そうか」という認識を含めて)。その上で、「こういう現状、みんなでなんとかしなくちゃいけないよね」「ここからひとりひとり、まちのなかでできることをやってきましょう」ということを確認する。そのことが大事だな~って思ったものですから、あえて学術的な研究の場みたいなトーク術は「封印」しました。
それでも、前川さんが「自立した個人」という言葉をつかったところには、いろいろとひっかかるものがあったので、「前川さん自身はどう考えているの?」と聴きたくて、3人で話すところで聴いてみたりもしました。と申しますのも…。
「自立した個人」が国家をつくる…という発想。これって実は、明治維新の頃、福沢諭吉あたりが言い始めて以来、ずっと日本の近代公教育が抱え込んできた課題なのではないかと。また、この「自立した個人」の中身や、その個人がつくりあげていく国の方向性をどう考えるかによっては、「この国、どっちに転ぶかわからないぞ」と。
たとえば、「自立した個人」は「国の福祉施策などに頼らず生きていくことのできる人」と考えれば、いわゆる「新自由主義」的な行財政改革を下支えして、「お国にもの申さず、なんでも自己責任で引き受けて、ひたすらがまんする」ような人物像も浮かび上がってきますよね。
あるいは、その「自立した個人」なるものが「祖国を守る」と考えていけば、これ、「富国強兵」政策の土台にもなれば、「国民皆兵」の基盤にもなるのではないかと。
そう考えると、明治維新から150周年を祝っているような人びとの発想と、この「自立した個人」に対する考え方との親和性もでてきますよね。
昨日の中之島公会堂でのイベントで、前川喜平さんは何気なくこの「自立した個人」が国家をつくる…という趣旨の話をされたのですが、私、ここがやっぱり気になるんですよね。
実はイベント前に前川さんの本を4冊読んでいるんですが、理論的にはずっとこのあたり、気になっています。
前川さんご自身は福祉国家的といいますか、戦後民主主義的な解釈で「自立した個人」について考えておられるようです。たとえば前川さんは、基本的人権のなかでも「思想・信条の自由」みたいなものを基盤に置き、社会保障などで暮らしを支えられている人であったとしても、ものの見方・考え方の面での「自立」を大事にするという発想を抱いておられるわけですが…(そこを昨夜、私は質問してみたわけです)。
でも、臨教審以来の約30年間のこの日本の教育改革の歩みのなかで、はたして本当に前川さん的なイメージで「自立した個人」像が創出されてきたのかどうか。そこはきっちり、検証しておく必要があるのではないかと思いました。
具体的にいうと、この約30年間の教育改革の歩みのなかで、「ある改革構想に一見リベラルそうなことばをちりばめておくことで、前川さん的なリベラル派の文部官僚を含めて人びとを納得させた上で、実はあとから政治や行政の力で別の人間像をさしこんで、当初構想していたのとは全然ちがった性質をもつものにする」という、そんな「悪巧み」をすることも可能だなあ…。もしかしたら、臨教審以来の約30年間、そんなことの連続だったのでは? なにしろ「日本国憲法変えられないなら、まずは解釈変えよう」をやりつづけてきた政府だったわけだからねぇ。そういう「悪巧み」をされた部分はなかったのかどうか、きっちり検証しておかないと…。そんなことも、ちらっとアタマによぎったのでした。
ついでにいっておくと、「人権」や「民主主義」という言葉についても、新自由主義的な理解や国家主義的、新保守主義的な理解もできれば、戦後民主主義的な理解もありうる。そう考えると、「一見、価値あることばであっても、誰が、どのような意図でそのことばを使っているのか。ひとつひとつ、ことばの中身をよく吟味しておかないと、とんでもない方向に引きずられるぞ~」と思ったりもしたのでした。
ただ、昨日のイベントはこうした教育学の理論的な話や、私の興味関心に即して話を詰めることよりも、まずは「大阪の教育、おかしいぞ」と感じる人々が集まって、「このままではいかんぞ!」と思って、動き始めることを大事に考えました。
きっと前川さん的な「自立した個人」が国家をつくるという発想も、そうした「行政(特に国)に対してもの申す個人」が「国家のダメな部分を是正する」というイメージがどこかにあるのだと思います。そう考えると今後、もう少し、このイメージを強調する言葉を創り出せないかな…なんてことも思ったりもしましたね。
以上が、昨日の前川喜平さんのイベントに出た私の感想です。