できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

「課題」のある子ども・若者の「自立」支援という主題

2009-09-18 16:08:25 | いま・むかし

これまでは何度かに分けて、父の死後いろいろと考えていることについて、このブログでまとめてみました。いよいよ今日あたりから、そろそろ本来の子ども施策・青少年(若者)施策、あるいは子どもの人権を守る取り組み、人権教育等々について、私からの情報発信を本格的に再開したいと思います。なにしろ、あしたで父が息を引き取ってから、ちょうど1ヶ月になりますので。

さて、父の死からこの間、私が書き綴っていたことを端的にまとめると、<不登校・ひきこもりや非行、あるいは経済的困難や両親の不和・離婚など、何らかの形で生活上の「課題」がある子ども・若者の「自立」支援の現場実践と、その現場実践を支える行政施策や制度のあり方、さらには、実践や施策・制度を支える理論・理念・思想といったものについて、これからの自分は考えていきたいということ>にまとめることができるでしょうか。

また、このことは、いま、こうした諸課題に直面している子ども・若者本人やその家庭、さらには、本人や家庭を支える活動を続けている現場教員や保育士、社会教育や児童福祉関係の職員、民間団体のスタッフなどに、ひとりの研究者としての私がどう向き合うのか、という課題でもあります。と同時に、私自身がこれまでどう生きてきて、これからどう生きていきたいのかという課題でもあります。

一方、こうした諸課題に取り組むには、従来の教育学の中の細分化された諸領域(たとえば学校教育や社会教育・生涯学習だとか、学校教育のなかでも生徒指導や進路指導、各教科の学習など)での成果を、もう一度「目の前にいる子ども・若者の示す課題」に即して、「子ども・若者の『自立』支援」という観点から再統合していく必要があるでしょう。もちろん、ここには人権保障や反差別に向けての取り組みの充実、階層間格差をより縮小していく取り組みの充実といった観点からの議論も必要になってきます。

また、教育学以外にも、たとえば心理学や精神医学、児童福祉学や社会保障、就労問題や子ども・若者文化に関する社会学の研究など、多様な子ども・若者に関する研究領域の成果についても、「目の前にいる子ども・若者の示す課題」に即して、同じように「自立」支援という観点からつないでいく必要があるでしょう。特に、子どもや若者の文化、たとえばファッションや音楽、アニメ、テレビゲーム、ケータイの利用等々といった、いわゆる「サブカルチャー」や「若者文化」の領域の課題への対応も、子ども・若者の友だち関係の問題とのかかわりやおとなによる保護・規制の問題とも深くかかわることから、子ども・若者の「自立」支援という観点から見て、いろんな議論を必要としているように思います。

そして、これから先の日本社会において求められる子どもや若者の「自立」とはなんなのか。このことについては、哲学的・思想的な問いかけを「目の前にいる子ども・若者の示す課題」に即して行っていく必要があるでしょう。また、「今までの日本社会では、子どもや若者の『自立』をどのようにとらえてきたのか?」という観点から、歴史的な検証作業も必要になってくるかもしれません。

今、ほんとうに子ども・若者の人権保障だとか、「自立」支援に関する施策の充実ということをすすめたいと思うのであれば、少なくとも「教育学」という枠組み、それも「人権教育」という狭い枠組みのなかで物事を検討し、新たな取り組みを構想するのではなくて、従来の学問領域の枠を相対化するようなまなざしで検討しなければいけないのではないか。そんなことをこのごろ、日々、実感するようになってきました。

また、そのためにこそ「絶えずくりかえし、目の前の困難な状況にある子ども・若者と、その周辺にいるおとなたちの生活の場面に立ち戻り、何がまだ検討されていない課題かを確認するということ」が重要なのではないかとも思い始めています。

これからも、時間の許す範囲での更新ということになるかもしれませんが、引き続き、「課題」のある今後の子ども・若者の「自立」支援という主題に関連して、このブログで情報発信を続けていこうと思います。今後とも、どうぞよろしくお願いします。

<script type="text/javascript"></script> <script src="http://j1.ax.xrea.com/l.j?id=100541685" type="text/javascript"></script> <noscript> AX </noscript>


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父の死後、あらためて思うこと(その4)

2009-09-12 18:14:29 | いま・むかし

白鳥は哀しからずや空の青うみのあをにも染まらずただよふ (若山牧水)

経済的に苦しかった家庭に育った私が、就学支援に関する制度・施策的なものや周囲の人々の生活面での支えなどをうまく使いながら、大学・大学院へと進学し、今に至る話は、これまでの「父の死後、あらためて思うこと(その1~3)」でも書いたとおりです。

また、そんな環境で育って今に至るがゆえかと思いますが、このところは研究者というか、学問的な言説の世界に少しずつ違和感を抱き始めて、「もっとストレートに、この当事者たちの暮らす場にかかわり、当事者に問い、たずねながら、自分なりに何か考えていく道があるんじゃないか?」と思うこと。あるいは、学校や教育について考えるときに、自分が関心を寄せる人々の暮らす「生活」の場に立ち戻って、繰り返し繰り返し、問いを立て直すという作業が大事だと思うこと。このことも、前回の「あらためて思うこと」で書いたとおりです。

ただ、前回のしめくくりに私は、こんなことも書きました。

「ただ・・・・。これはなかなか、言うはたやすく、行うのはなかなか、難しいことです。また、こういうことを書いている私自身も、それがどこまでできているのか、わからない面があります。」

このことを、父の死後、あらためて強く感じるようになりました。

大学院に進学して家をでてから、私はもう15年以上の月日がたちました。大学院博士課程にいる間に結婚し、その後、川西市子どもの人権オンブズパーソンで調査相談専門員の仕事をして、今の京都精華大学に就職しました。そして、2004年の年末にははじめての子どももうまれました。その間もいろんな紆余曲折や断念したこと等もあったのですが、でも、簡単に書けば、大学院進学者として、それ相応のキャリアを積んできたわけです。

でも、そうやってキャリアを積んでいけばつんでいくほど、私はやはり、大学院を出て大学教員という職業に就き、大学という場で日々の生活時間の大半をすごすなかで身に着けていく「文化的なもの」が多々あって、それが生まれ育った実家の持つ「文化的なもの」と、かなり相容れないものになりつつあることを、何かことあるごとに実感してしまうのです。

たとえば、ほんとうに些細なことかもしれませんが、このたびの父の葬儀に際しても、たくさんの親戚の方に集まっていただきました。そのことは本当にありがたいのです。実際、ほんとうにいろんなことでお世話になりました。たいへん、ありがたいことです。

ですが・・・・、たとえば通夜の席などで親戚の方などに、今、自分が大学で何をしているのか、そのことをよく訪ねられたのですが、そういうときに「何を、どんな風に話せばいいのか?」と、戸惑ってしまう私がいます。

自分が今、どんな研究に取組んでいて、どんな社会的な活動をしているのかということを、ほんとうに親戚の方などにわかってもらうためにていねいに説明をしようとすると、いくつかの予備知識を必要とすること。その予備知識を理解してもらうために、さらにいくつかの前置き的な話をして・・・・と考えると、「まだるっこしいなぁ~」という話になりますよね。だから、こういうことをあれこれ考えてしまうと、私は自分のことについて、あまり多くのことを親戚の前では語れなくなってしまいます。ほとんど毎回、ごく簡単な説明で終わるようになっています。

あるいは、うちの親戚はほんと、何かとよく集まりを持っています。その集まりがあるたびに、「昔、○○はこのとき、~だった」という風に、母を含め、父やほかの親戚のことを、一杯ひっかけながら、あれこれ思い出話風に語る人がいます。

でも、その話を聴いていると「おや?」と疑問に思うことや矛盾を感じることが私には多々でてきて、それに対して、「その話、前に聴いたときと何かちがうよ」とか、「それってかなり記憶違いで、ほんとうは・・・・だったはずだよ」とか、「話が大げさにふくらみすぎだよ」とか、いろいろツッコミを入れたくなる私もいます。

どうしても私は「解釈や気持ちの部分はいいんだけど、せめて起きた出来事や事実は正確に伝えてよね」とか、「その人について、まちがった理解を前提にして話をすすめないでね」とか、そんな風に脇で聞いていて思うのですが、まわりの親戚たちはそんなことよりも、自分たちのこれまで抱えてきた心情だとか、その場の雰囲気の盛り上がりなどが大事なんですよね。そういう人にしてみると、何かと「それって、ちがうんじゃない?」とかいう私って、ウザイでしょうねぇ・・・・。

一方、親戚の集まりで語られる思い出話には、私、ほかの人の話であっても、時々「聞いていられない」ようなしんどさを覚えるときもあります。また、「きっと、私が居ないところでは、私についてもその場の盛り上がりで話が大げさになったり、実際とちがう話が曲げられたりして、いろいろ言われているんだろうな・・・・。なんせ、今日もこんな調子だから」と思ってしまうことすらあります。「いっそ、親戚の集まりに呼んでくれなくてもいいや。静かに私ら一家だけ置いていてくれるほうが、よっぽどありがたい」という思いにいたることも、私にはしばしばあります。

でも、この親戚たちにとっては、こういう話し方や集まりの持ち方は、ある意味で「あたりまえ」のこと。というか、そこでこんな会話を楽しみながら、うまいものを食い、一杯飲んで、ちょっといい気分になることで、日ごろのストレスを解消している。だからこそ、きつい仕事だとか、日々のしんどい生活にもなんとか、耐えていける・・・・。そんなところもあるんでしょうね。

そして、その生活感覚の延長線上で、「今度、あの子らも集まりに呼んであげようや」と、親戚のみなさんはまさに「親切」で私に声をかけてくれたりもするわけです。ついでにいうと、この親戚の部分に「母」という言葉を入れたら、今の実家と私の関係にも、似たようなことがあてはまります。けっしてみんな悪気はなく、むしろ親切な人たち、いわば「情の濃い人たち」なんですよね。でも、その「情の濃さ」が生み出すものがやっかいというのか・・・・。

このような次第で、前々からわかっていた部分も大きかったのですが、このたびの父の死をきっかけにして、どうも言葉の使い方や会話の方法、その裏にある価値観など、実家や親戚たちと私との間にはずいぶんちがいがあることに、あらためて気づかされたわけです。

ちなみに、教育社会学の領域には「言語コード論」という研究があります。「言語コード」というのは、簡単に言えば「人がどのように話すかを決めている(目には見えない)ルール」。また、その「言語コード」には、まるでラジオのニュースで伝えられるように、それがどこで起こったかが聞き手にはっきりわかるような、そんなていねいで説明的な物言い=「精密コード」と、「限定コード」といって、お互いによく見知った者どうしの会話でよく使われるような物言いとにわけることができます。たとえば、よく見知った者どうしだと、あまり多くのことを言葉でいわなくてもわかりあえる(場合によれば「メシ、フロ」とか、単語ひとつでも用件を済ませることができる)とか、論理的な説明よりも情緒的な語り方のほうが好まれるとか、そんなことがありますよね。これが「限定コード」の使われる場面といえばいいでしょうか。そして、この「言語コード」の2つのパターンのどちらがよく強く現れるかには、社会階層のちがいに伴う生活習慣や文化のちがいなどが反映しているようです。(ちなみに、この「言語コード論」については、志水宏吉『学力を育てる』(岩波新書)の第3章を参照しました。)

大学院入学以後、この「言語コード論」の話を文献などで見聞きするたび、「ああ、これって私と実家、親戚の関係だなぁ」って思うんです。そして、私がだんだん、実家や親戚の集まりになかなかなじめない自分に気づくたびに、「学校や教育について考えるときに、自分が関心を寄せる人々の暮らす「生活」の場に立ち戻って、繰り返し繰り返し、問いを立て直すという作業」が大事だと思いつつも、「自分は誰の生活の場に、どういう形で立ち戻るのか?」という難問があるんだということにも、あらためて気づくわけです。そこが、上で「ただ・・・・。これはなかなか、言うはたやすく、行うのはなかなか、難しいことです。また、こういうことを書いている私自身も、それがどこまでできているのか、わからない面があります」と書いた理由です。

と同時に、「誰かがきちんと、実家や親戚のような生活をしている人々の思いを受け止め、学問的な世界に向けて情報発信しないと、学問的な世界に暮らす人々は自分たちに通用する言葉で自己完結して、それ以外の世界で暮らす人々にわかるようにことばを磨く努力を怠ってしまうのでは?」という思いも、父の死後、あらためて強まっているのも事実です。それはやはり、生活習慣や文化が少しずつずれはじめ、なかなかわかりあえない部分もでてきたとはいうものの、このたびの父の死をきっかけに、実家や親戚のみなさんの「情の濃さ」とか「親切さ」に触れて、何かが私のなかで芽生えはじめているからだと思います。

だから、冒頭に引用した若山牧水の短歌(これって中学か高校の国語教科書にでていませんでした? ついでに、短歌そのものも、これでまちがいないでしょうか?)のように、今の私は実家や親戚の暮らす生活の世界にも、学問的な世界にも、なんだか今まで以上に「染まらずただよふ」感じです。

今後も引き続き、このテーマについて、書き綴っていくことにします。

<script type="text/javascript"></script> <script src="http://j1.ax.xrea.com/l.j?id=100541685" type="text/javascript"></script> <noscript> AX </noscript>


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父の死後、あらためて思うこと(その3)

2009-09-10 06:23:22 | いま・むかし

昨日の続きで、またひとつ、書いておきたいことがあります。

私の父は、前にも書いたかもしれませんが、15歳で中学校を卒業してすぐに北海道からこの関西に出てきて、飲食業の世界で働き始めました。その後も飲食業を中心に働いたのですが、何度か失業、転職などを余儀なくされました。でも、60過ぎるまでどうにかこうにか働く先を見つけて、その後は年金等の収入を頼りに暮らしてきました。(もっとも、父が60を過ぎてからは、母がその裏で家計を支えるためにパートで働いてきたわけですが・・・・)

さて、不登校問題にかかわる人たちがよく言うように、「学校に行かなくとも生きていける」とか、「学校に行かない人生もある」ということは、私は両親を見ればよくわかります。父も母も、それこそ学歴的には恵まれた人生を生きているわけではありませんから。

ただ、「学校に行かなくとも生きていける」とか「学校に行かない人生もある」けれども、「それがその人にとっていい人生かどうか」については、まさに「本人しだい」というしかありません。また、「学校に行かない人生」には、「学校に行く人生」とはまた異なったそれ相応の苦しみやしんどさがつきまとうことも、父や母を見ていれば、よくわかります。

そして今、思うのは、父や母の世代が少なくとも中学校以後の「学校に行かなくとも生きていける」人生が送れたのは、「それでもなんとか誰かとつながり、働く場所を得て、けっして豊かではないけれども、なんとか自力で食っていけるようになる道があった」ためではないのか、と思うのです。その分、「社会のふところが広かった」ということでもあるのでしょうけど。

けっして豊かではないし、転職や失業の不安をかかえ、生活をしていくのもカツカツで苦しかったけど、でも、そのなかでも誰かとつながり、伴侶を得て家庭をつくり、自分なりに働いて生きていく道があったということ。そのことが、少なくとも父の生きてきた時代、特に若い頃にはあったんですよね。でも、そういう道が今、この日本社会のなかで、どういう形で存在しているのだろうか? フリーターやニートといった若者の就労問題が突きつけているのも、結局、こうした問題なのではないでしょうか?

それを思うと、不登校の問題を考えるときに、本気で「学校に行かなくとも生きていけるよ」と子どもや若者に語ろうと思えば、「それでもなんとか誰かとつながり、働く場所を得て、けっして豊かではないけれども、なんとか自力で食っていけるようになる道」を、どういう形でこの社会のなかに創りだして行くのかということと、あわせて語る必要があるのではないのか。「この社会のなかで、学校に行かない道を生きる多様な子どもや若者をうけとめるような、そんなふところをどれだけ、どうやって広げるのか?」ということについて、突き詰めて考えていく必要があるのではないか。そんなことを私は強く感じます。

その一方で、近代学校(教育)批判や脱学校論など、いろんな議論が教育学(教育論)の世界でこの何年か繰り広げられてきましたし、私の身近なところにも、この議論に深くかかわってきた人々が何人かいます。ですが、その議論が「学校(教育)を問う」というレベルにとどまっている限り、このところ、私は「もう、その手の議論だけでは、やっていけないよ」と思うようになってしまいました。

特に、それが近代学校(教育)について語ることば(言説)や、それを支えている諸思想などへの批判的検討のレベルにとどまるのであれば、なおさら、そういう実感を抱くようになりました。かなりうがった言い方になりますが、その手の検討や議論というのは、大学などにいる研究者の間では重要なことかもしれないけれども、「それこそ、父や母が生きてきたような人生とか、あるいは、今、まさに学校とどうつきあうかで悩んでいる子どもや若者、その家族にとって、どんな意味があるんだろう?」と思うことが、このところ、増えてきたんですよね。時々、何か、ものすごく大きな「遠回り」だとか、「袋小路」に入った話をしているような気がするんですよね。この手の検討や議論の成果に触れるたび、「もっとストレートに、この当事者たちの暮らす場にかかわり、当事者に問い、たずねながら、自分なりに何か考えていく道があるんじゃないか?」と思ってしまうのです。

だから、「あらためて今、子どもや若者にとって、この社会のなかで『おとな』になっていくということは、どういうことなのか?」という次元から、たとえば「働く」とか「食っていく(文字通りの「食事」のことも含めて)」ということ、あるいは「家族」や「恋愛」「友だち」等々、人々の「生活」のありようの問題を見つめていく作業をていねいにしなければ、これからの学校や教育、あるいは学校の外の学びの場のありようなどについて、きちんとした議論はできないのではないか。そんな思いがより、強くなってきています。それはある意味で、学校や教育について考えるときに、自分が関心を寄せる人々の暮らす「生活」の場に立ち戻って、繰り返し繰り返し、問いを立て直すという作業になるということでしょうか。

ただ・・・・。これはなかなか、言うはたやすく、行うのはなかなか、難しいことです。また、こういうことを書いている私自身も、それがどこまでできているのか、わからない面があります。今後も引き続き、このテーマについて、書き綴ってみます。

<script type="text/javascript"></script> <script src="http://j1.ax.xrea.com/l.j?id=100541685" type="text/javascript"></script> <noscript> AX </noscript>


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父の死後、あらためて思うこと(その2)

2009-09-09 19:12:50 | いま・むかし

前回に引き続き、父の死後、あらためて思っていることを、こちらのブログに書いておきます。とはいえ、ここに書くわけですから、思っていること・考えていること・感じていることは、これからの子ども施策や青少年(若者)施策や、人権教育や子どもの人権保障のあり方などに深くかかわるわけですが。

さて、前回書いたように、高校生になってから後の私にとっては、父の病気のこと等もあって、「いかにして自分の経済的自立をなしとげていくのか?」が大きな課題のひとつでした。でも、「経済的自立」の問題は、実は高校生以前からも私にとっては大きな課題でした。

というのも、私の生まれ育った家は、ほんとうに経済的に不安定な状態が続いた家でした。私が幼い頃から、たとえば父の勤め先がつぶれて失業、転職という時期もありましたし、借金を抱えていた時期もありました。このために、たとえば給食費や修学旅行費の補助といった、いわゆる「就学援助」を受けていた時期もあります。また、私たち子どもがみんな小学校に通うようになった頃から、父の稼ぎを補うためにも、母がパートに出て働いていました。

そういう家庭の経済的な苦しさは、当然ながら、子どもの進路選択や将来展望に、いろんな影響を与えます。もう私たちの世代ですと高校進学率が9割を超えていましたから、私たち子どもは、当時であれば「高校を出たら進学ではなく、まずはどこかへ就職」ということを考えることになりますし、親も「大学に行きたければ奨学金をもらうか、自分で学費を稼いで」というしかないわけです。しかも、大学等へ進学する場合は、「家から通える範囲で」という条件がつきます。学費すら出せないのに、下宿生活の仕送りなんて到底、無理ですから。

今にして思えばもちろん、こうした親の下で育ったがゆえに、私たち子どもは「経済的自立」ということを強く意識して、自らの進路を自ら開拓するしかないと思い、必死になって努力した・根性がついたという「ありがたい」一面もあります。

しかし、高校生や大学生の頃の私は、やはり同世代の人たちを見ていると、「なぜ同じ年頃に生まれていても、育った家がちがうだけで、こんなにも進学や就職などについて、経済的な面でスタートラインがちがうんだ?」という思いが、やっぱり芽生えてきますよね。

たしかに、学校での学習をいっしょうけんめいやって成績を上げ、奨学金をもらって大学へ進学する等々、本人の努力でできることもいくつかあります。学校の教員と子ども本人のがんばり、そして、奨学金などの制度的整備によって、家計を頼らずに切り拓いていける進路もいろいろあるでしょう。

しかしそれでも、奨学金の額で学費をまかなえるところというのは、やっぱり限られているもの。だから、大学進学を前にした私のなかでは当時、「学費のできるだけ安いところ」「家から通えるところ」等々、「自分の学びたいこと」に加えて「経済的な条件に折り合いがつく」ということを、進学先を決めるために強く意識せざるをえませんでした。

おまけに、奨学金は「貸与」であれば卒業後、返済をしなければいけません。また、かつての日本育英会奨学金のようにある要件を整えれば返済が免除されるようなものもありましたが、そうなると、大学卒業後の自分の進路も視野に入れて、その奨学金を受けるかどうかを考える必要がありました。

繰り返しになりますが、こういったことはもちろん、今にして思えば、自分の「経済的自立」や将来の進路展望などを真剣に考えることにつながりましたし、「なぜ大学に行くのか?」という理由を自覚する意味でも大事であったとは思います。

でも、それは「当時のあの生活環境におかれて、私が経済的に自立していくために、やむなくそうせざるをえなかった」からしたこと。「あの頃、もっと条件がよければ、別の選択肢を考えたかも?」という思いが、どうしてもこのところ、アタマのなかをよぎるんですよね。

だから、「若い頃の苦労は買ってでもしろ」という式のおとなの説教には一方で理解できる面はあるのですが、同時に、「その苦労した子どもや若者をきちんと認めて、あとあとまで面倒見て、『苦労してよかったな~』と思えるような社会的な仕組みがなければ、そう簡単に『若い頃の苦労は買ってでもしろ』と言ってほしくない」という思いもあります。

そして、こういう経験をしてきたがゆえに、どうしても私は、昨今の子どもの貧困問題に関する議論に文献などを通して触れると、「あの頃の私」がまるでよみがえってきたような感じがして、「これって、他人事ではないよなぁ」という気持ちになるんですよね。また、子どもの進学や就職を通じての「経済的自立」の問題と、これを支えるための社会的な条件整備のあり方について、どうしても関心を寄せてしまうことになるわけです。

と同時に、経済的にしんどい状況にある家庭の子どもや、その子どもの親たちが、いろいろと苦労をして通う・通わせている学校での教育の中身とか、そこでの教員の対応のあり方などについても、当然ながら、私としてはいろいろと思うところがあります。ただ単に学校に「行けばいい」とか、「行ったらどうにかなる」というものでもないですからね。

子どもの学習権、特に学校に通うことを通じての学習権の保障(あえてこういうのは、学校外の学びの場が果たす役割を否定したくないからです)というテーマは、きっと私の場合はこんな感じで、自分の生活体験を通して何かを考え、論じることになるんでしょうね。

まだまだこのテーマについては、書きたいことがいろいろと沸いてきます。今後も引き続き、このテーマで機会を見て、書いていきたいと思います。

<script type="text/javascript"></script> <script src="http://j1.ax.xrea.com/l.j?id=100541685" type="text/javascript"></script> <noscript> AX </noscript>


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父の死後、あらためて思うこと(その1)

2009-09-03 07:13:14 | 受験・学校

いよいよ9月に入りました。できるだけ、こまめな更新を心がけていきたいと思います。

さて、このところ今後の子ども施策や青少年(若者)施策についてあれこれ考えるのですが、そのときにどうしても思い浮かべてしまうのは、「親(保護者)からの経済的・心理的自立」の問題。それには先月、私の父が息を引き取ったということとも絡むのですが。

もうひとつの日記帳ブログにも書きましたが、父の直接の死因は、去年からの胃ガンの再発。去年の手術にもかかわらず、その再発したガンの転移が腹膜その他内臓のあちこちに広がって、今年の夏休み前には手の施しようのない状態になったのでした。

しかしながら、今「再発」と書きましたが、最初に胃ガンが発生したのは、実は私が高校生の頃。その頃から数年間、私は父の「再発」におびえ、「どうにかして、自分で自分の生活を成り立たせることができるように、経済的に自立しなくちゃ」と思っていたのでした。

私が高校卒業後、夜間部のある大学への進学を決めて、昼間は公務員として働いたのも、この「経済的な自立」の問題が背景にあったことは否めません。また、大学院進学と同時に家を出て、ひとり暮らしをしたり、奨学金と定時制高校の非常勤講師としての稼ぎをもとに大学院の修士・博士課程に通ったのも、こうした家庭の事情があったことはまちがいありません。とにかく、実家の経済力をアテにした生活は、少なくとも当時の私の場合「無理」でしたから。おまけに、私の実家は神戸にありますが、ちょうど修士課程修了・博士課程入学の年に、阪神淡路大震災もありましたし・・・・。

ただ、今にして思えばたしかに経済的にも心理的にも、この頃、ものすごくしんどかったわけですが、別の見方をすることもできます。それはどういうことかというと、「家庭環境に恵まれないひとりの若者が、親からの経済的自立をはたそうと努力すれば、少なくともこの80年代終わり~90年代半ばまでの頃であれば、それを達成するいろんな環境的条件があった」ということ。また、「そういう若者を支えようとする『身近なおとな』も、けっこういた」ということ。

たとえば、今、国公立・私立で、「働きながら学ぶ」という道を夜間部等の形で準備している大学が、どの程度あるのでしょうか。また、「働きながら学ぶ」という道を支えるためには、若者に定時出勤・定時退社を認めるような、そんな安定した雇用環境も必要です。そんな就労先がどの程度あるのでしょうか。あるいは、貸与・給付の奨学金制度はどうなっているのでしょうか。そして、大学そのものの学費は、この頃と今とではどの程度変わっているのでしょうか・・・・。

あるいは、私が夜間部在学中に働いていた職場の人たちは、当時、夕方、大学に通う頃になると「仕事は適当に切り上げて、早く行け」と送り出してくれました。大学院進学後かかわった不登校の子どもの集う民間団体のみなさんは、経済的に苦しい下宿生活を送ってる私に、いろんな支援をしてくれました。それは、買い込んだ缶詰やレトルト食品が余ったといって分けてくれたり、病気で寝込んだときにごはんをつくりに来てくれたり・・・・。そして、定時制高校で非常勤講師をしたことだって、当時、不登校関係の活動でかかわっていた方に知恵を借りてすすんだ話です。

たとえ当時、実家の親は経済的にも心理的にもアテにはならなかったとしても、実家の外に、いろんな「おとな」たちが私のことを気づかって、いろんな形で支えてくださったからこそ、今日までどうにか、私もやってこれたんですよね。また、その当時の私が極力親に頼らないで暮らしていこうと思えば、それが可能な制度的条件もあったわけですよね。

それを思うと、家庭環境に恵まれていない若者が自分なりに経済的・心理的自立の道をさぐるための制度的条件や、これを支えるための地域社会などの人的ネットワークの整備。このことに、やっぱり私はこだわってしまうんですよね。

「あの親のために、私の人生はめちゃくちゃになった」と親をうらむのではなく、「あんな親のもとに生まれたけど、でも、私は私で、幸せに暮らせている」と思う日々に、家庭環境に恵まれていない若者が出会うためには、本人の努力とともに、これを支える制度的な条件と地域社会などの人的ネットワーク、これが必要なのではないかと、あらためて思います。また、少なくとも、これからの青少年(若者)施策が「若者の経済的・心理的自立」ということを目指すのであれば、「親にかわって若者の暮らしを支える制度や実践の必要性」という視点を持って、今後の方向性を検討すべきであろうと思います。

今後も引き続き、父の死後、子ども施策や青少年(若者)施策にかかわってあらためて考えたこと、思うことを、このブログで書き綴って生きたいと思います。

<script type="text/javascript"></script> <script src="http://j1.ax.xrea.com/l.j?id=100541685" type="text/javascript"></script> <noscript> AX </noscript>


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする