先日、市川三郷町で、末期がんに苦しむ住職がその妻に殺害されるという事件が起こりました。
苦しむ姿を見かねて首を絞めたということらしいですが、詳しい真相はわかりません。
この事件はいろいろな問題をはらんでいるように思えます。
まず、●緩和ケアについて。
今の時代、がんの痛みは我慢することなく、痛みを和らげる治療を受けることができるのに、そのことがまだまだ理解されていないということ。
●看病する人の心のケアについて。
家族など、親しい人の看病をする人というのは、看病される人と同じくらい心のケアが必要です。
しかし、それについて、適切なケアをしてくれる機関があまりないということ。
また、人間関係の希薄さから、なかなか相談できる人がいないというのも現実です。
本来、心のケアはお寺がすべき領域かもしれません。
これから、お寺が本気で取り組んでいかなければならない問題の一つでしょう。
●老老介護(看護)について。
お年寄りがお年寄りを介護(看護)しなければならない状況が多々あるということ。
介護、看護等、力になってくれる機関があるのに、情報が届かないため、そこにたどり着けないで、ひとりで抱え込んでしまうということが多いということ。
そういったいろいろな問題が積み重なって起こった事件のように思います。
新聞でも、「病人を抱える高齢者世帯では他人事ではないと重く受け止められている」(山梨日日新聞7月11日)というようなことが書かれていました。
そして、●お寺特有の問題。
お寺の住人(住職、その妻など)は常に公人として見られ、行動することを期待されています。
特に、寺庭夫人は住職を助け、法務以外のお寺の仕事はもとより、みんなの面倒を見、相談に乗るという役割を演じることを求められます。
そのため、自分自身の悩みを相談するということが、非常にしにくい立場に置かれていることになります。
それで、事態が悪化するという傾向があるのかもしれません。
どんな屈強な精神の持ち主でも、弱気になることはあります。
しかし、それを隠し続けなければならない辛さは相当なストレスになるでしょう。
そんな、お寺特有の問題も今回の事件の遠因になっているのかもしれません。
人という字は人と人とが寄り添ってできています。
助けたり、助けられたり、お互いに支え合ってこその人間です。
助けられることは、はずかしいことではありません。
お互い様なのです。
困った時は助けを求め、助けを求められたら、気持ちよく手助けする、そういう社会でありたいものです。