私が死んだあとであなたが読む物語

基本的には「過食症患者の闘病記」、と言っていいでしょう。

この欲求を手放す喜びを私に

2019年04月30日 14時13分05秒 | 過食症

通常状態23日目。

先日たまたまYouTubeで「悪い習慣を断ち切る3つのステップ」という動画を見ました。

過食というのも、ある意味では私自身に染みついた悪癖といえます。

この動画の中で「後帯状皮質」というワードが出てきます。

これは脳の一部で、動画の中では禁煙を例に説明していますが、私のことに置き換えるなら、過食衝動が膨らんでいるときは、この後帯状皮質が活性化しているといえるでしょう。

そして過食をしてはいけないと思えば思うほど、余計に活性化して行動が制御できなくなる。

そうではなくて距離をとれ、と。

過食をしてもいいから、そのかわりにそのときの自分の感情を観察せよ、と。

 

この動画と合わせてジャドソン・ブルワーの「悪い習慣を断ち切るシンプルな方法」という記事も読みました。

この記事の中でとても納得がいったのが、前頭前野のくだりです。

人は前頭前野の働きによって認知的な制御が可能になるそうです。

過食をしてはいけないという制御ができているときは、この前頭前野が機能しているときです。

しかし強いストレスなどにさらされたとき、この前頭前野は機能しなくなる。

そして昔ながらの習慣に逆戻りしてしまう。

私もそう言った経験は何度もあり、私の中では「素っ裸の状態」とよんでいます。

どれだけ理論武装しても、いざ過食衝動と対峙するとそれらは剥がされて素っ裸の自分で戦うことになる。

そんな後帯状皮質が活性化しているときは、禁煙者の場合、煙草を吸ってみて「どんな気分になるか関心を持って観察してください」とあります。

それで喫煙者は煙草を吸って「オエッ!まずい」ってなったそうです。

でも私の場合、たぶんそうはならない。

解放された感覚、満たされる感覚、そういったものを観察してしまう。

でも過食した結果、如何に自分が汚されてしまったか、如何に自分の人生が削られてしまったか、その事実を観察しないといけない。

いわば観察すべきはもっと先にあります。

習慣に従った結果を見つめることで、骨身に染みるほど深いレベルで悪習の実態を自覚できれば、過食そのものへの興味が薄れるといいます。

心底嫌気がさすのが大事とありますが、それでいうと昔の方がそうだった気がする。

過食症になりたてのころは、ひとたび過食をすると強烈な自己嫌悪に陥っていました。

でも今は昔に比べるとそれほどでもない。

だからやめられないのだろうか。

過食に対する嫌気は十分に感じているはずなんだけどな。

そんなことばかり考えていると、過食衝動に襲われたときってどんな感じになってたっけって、なんだかいますぐにでも対峙したくなってきました。

今度のときはうまくいって、衝動から距離をとり欲求が弱まっていく感覚を捕まえることができればいいんですが。

 

ほかにもいろいろと「マインドフルネス」なるものを調べていると、やっぱり呼吸を意識するってのが重要みたいですね。

呼吸は「いまここ」から流されないための錨である、というのはなかなか為になります。