私が死んだあとであなたが読む物語

基本的には「過食症患者の闘病記」、と言っていいでしょう。

童貞じゃなければ泣かずにすんだのか

2012年08月21日 21時49分24秒 | Weblog
久しぶりに泣いた。


お見合い企画のテレビ番組を見た。

男女合わせて六十人ほどが参加しているお見合いで、女性陣の中に一人だけ美人がいた。

当然男性人気が集中する。

彼女はバツイチ子持ち。

それでも若くて美人な彼女に男性達は群がる。

十九歳の男の子から四十近いおじさんまで幅広い。

結局彼女は当初の狙いであった十九歳の男の子ではなく、四十近いおじさんを選んでカップルとなった。


涙を流した発端はそこにある。

四十近いおじさんが若い女の子に言い寄る光景に不潔感を感じる。

そんな自分は刻一刻とそのおじさんに近づいていっている。

それなのに私はセックスをしたことがない。

だから泣いた、ともいえる。

要は自分の不運に泣いたのだ。

泣いたら誰かがこの不運から救ってくれるとでも思っている節がある。


私は空っぽだ。

それは日に日に増していく。

どこかで歯止めをかけたいけれど、如何せんどうしようもない。

そんな気もないくせに自殺が脳裏をよぎる。

首つり用の縄を買うところを想像する。

購入の際、店内で一応その縄を自分の首にあてがってみる。

それを見た誰かが声をかけてくれるかもなんて淡い希望を抱かないでもない。

自分の部屋を見渡してみても、首を吊れるような柱が無い。

ここでは死ねない。

私が死んだら、その後どうなるのだろう。

家族は泣くだろうか。

しかしそれにしても、血縁関係の者意外に私の死を惜しむ者がいない。

一人としていない。

これは悲しい人生を歩んだものだと思う。


私は空っぽだ。

失敗作だ。

昔母に言われた言葉だ。

母の言ったことは正しかった。

自殺すれば、その死体の片づけやら葬儀やらで家族に迷惑がかかる。

精神的な苦痛も少なからず与えることになるかもしれない。

誰かを苦しめるくらいなら自殺ではなく行方不明となり、生きている望みを残してあげた方がいいのだろうか。

それなら自宅ではなく、どこか遠くでひっそりと死のう。

首つりは自殺の手段としては意外と苦しくないそうだからそれ以外の死に方をするつもりはないが、だがもし首つりで死んだとすると、たとえどこで死のうといつか遺体は発見されてしまうな。

それじゃ意味ないや。


遺書を残そう。

残された者が何も分からないんじゃ心が落ち着かないだろう。

遺書にこう書こう。

「あなたが仰ったとおり、私は失敗作でした」




想像がそこまで進んだとき、涙があふれた。

私は大バカ者だ。


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