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ニッポンのゆる~い日常

海賊対策にひるむな

2009-03-12 10:38:56 | Weblog
3月12日付     産経新聞より



http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090312/plc0903120306000-n1.htm


海賊対策にひるむな   櫻井よしこ氏



ソマリア沖に跋扈(ばっこ)する海賊退治への参加は国際政治における同志諸国との連携の枠組みづくりそのものだ。自衛隊法などの信じ難くも時代遅れな規定や、チマチマとした愚かな法解釈の論議に、麻生太郎首相はとらわれてはならない。

 政治が国民の信頼を失いつつあるいまだからこそ、麻生首相は、保守の政治家として立ち枯れしてはならない。働き場所で、命をかけて働かずにどうするのだ。

 ソマリア沖を航行するタンカーや商船は年間2万隻、日本関連の船は2000隻だ。昨年の同海域での海賊事件は111件、815人が人質となった。海賊は船と積み荷を奪い、人質をとる。多額の身代金でロケット砲などの重火器を買い、重装備する。武器の充実に伴い、タンカーなど大型船舶をも襲撃する。

 国連安全保障理事会は昨年6月に国連決議1816を成立させ、各国の海軍に、海賊制圧のために、ソマリア領海への進入と領海内での海賊行為の制圧に必要なあらゆる手段を認めた。

 12月16日には決議1851も全会一致で成立させた。今度は、ソマリアの領海のみならず、領土、領空に踏み込んでの軍事作戦も可能だとした。国際犯罪の海賊行為制圧への驚くほど強い決意の表明である。結果、3月11日現在、17カ国が海軍を派遣し、8カ国が派遣準備中である。


 麻生政権は今月14日、ようやく海自の護衛艦2隻を派遣する。しかし、大きな問題がある。すでに指摘されてきたことだが、各国が海軍を派遣する中で、海自は軍隊としてではなく、海上警備行動の発令を受けて警察官職務執行法に基づいて派遣される。

 結果、海賊への対処は、正当防衛、武器比例の両原則が前提となる。相手が海自の艦船を攻撃してこない限り、海自が海賊を攻撃することはかなわず、攻撃された場合は、相手の武器と同レベルの武器で対処しなければならないのだ。加えて、警察官職務執行法第7条の「人に危害を与えてはならない」の規定により、海賊にけがを負わせるような船の撃沈は許されない。おまけに、守ることができるのは日本関係の船に限られる。

 昨年4月、日本郵船の大型タンカー「高山」が5回にわたって海賊船の銃撃を受けた。救出したのはドイツのフリゲート艦「エムデン」だった。この例にもれず、ソマリア沖を通る年間2000隻の日本関連船舶は、諸国の海軍に守ってもらっている。海自が他国の船を守れないなどということは、到底、許されない。守らなければ、日本の名誉は未来永劫(えいごう)失われる。麻生首相はそんな事態の出来に耐えられるのか。

 首相は昨年10月、海賊の脅威について、民主党の長島昭久衆院議員の指摘を受けて、極めて前向きに反応しながら、行動は起こさなかった。政府がやる気になったのは、中国政府が軍艦2隻と補給艦の派遣を発表した昨年12月だ。「大国としての責任を果たす」と宣言した中国の姿に慌てたのであろう。だが、形ばかりの派遣は、あまりにもリスクが大きい。

 今回、海上保安庁では対処できないとして、海自が派遣されるわけだが、両者の違いは、船体のつくりと搭載する武器だけである。前述の正当防衛、武器使用比例原則、人的被害は許されないなどの規定をそのままにして、一体、海自にどんな働きをさせようというのか。政治家はもっと、現場の自衛官の置かれる立場についてまじめに考える必要がある。

 それにしても、自衛隊法のどこにも、海自は日本関連の船しか守れないとは書かれていない。にもかかわらず、なぜ、現在の解釈が生まれたのか。根拠は34年も前の丸山防衛局長の答弁だ。自衛隊法82条は海上警備行動は「海上における人命若(も)しくは財産の保護又は治安の維持のため」としているが、右の「人命若しくは財産」について、丸山局長が「通常、日本人の人命および財産ということとされる」と答弁した。以来、法律にはない、守れるのは「日本人の人命および財産」に限るという解釈がまかり通ってきた。

 一防衛局長のたった一度の答弁が日本を縛り続けてきたのだ。日本の侮蔑(ぶべつ)につながりかねないこの縛りを、なぜ、私たちは受け入れなければならないのか。

 これらの矛盾は、すべて、集団的自衛権に行き着く。外国船や外国人を守るのに武力を行使すれば、集団的自衛権に抵触するとの考えが、防衛局長の答弁の根底にもあったと思われる。

 だが、犯罪者集団の海賊退治は、集団的自衛権とは無関係だ。どうしても集団的自衛権に関連づけるというのであれば、集団的自衛権の解釈を変えるべきだ。国連がすべての加盟国に認めている集団的自衛権を、日本だけが行使できないとしたのも、内閣法制局長官、つまり、官僚の考えにすぎない。

 首相は「官僚を使え」と語った。であれば、使うことと従うことは異なるのだと示してほしい。国民の代表として、集団的自衛権の新解釈を打ち出すのだ。

 そうしてはじめて、海自の派遣は、国際社会における日本の立場の強化につながる。価値観を同じくする米国、EUなどとの連携もスムーズに進むだろう。

 自民党は3月10日、海賊新法の概要を決定した。同法案の成立には、少なくとも2カ月かかる。問題がおきれば、成立しない可能性もある。だからこそ、新法を待たずに、首相が集団的自衛権の行使に踏み切ることが望まれる。就任以来、首相は保守の政治家らしいことは、まだ、何もしていない。ひとつでもやる気を見せずにどうするのだ。

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「東京大空襲」が意味するもの   

2009-03-12 10:34:52 | 正論より
3月12日付     産経新聞より

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090312/acd0903120310000-n1.htm

「東京大空襲」が意味するもの   拓殖大学教授・藤岡信勝氏



≪木造の家屋狙った焼夷弾≫

 アメリカが日本の人口密集地に焼夷(しょうい)弾を使用することを考え始めたのは「パールハーバー」よりもはるか前のことである。日米戦を想定して、「木と紙」でできている日本の家屋を攻撃するには、焼夷弾のような火炎兵器が最も効果的だと分析した。

 アメリカが日本の空襲用に開発した焼夷弾は「M69油脂焼夷弾」とよばれ、本体はゼリー状のガソリンである。開発責任者のR・ラッセルはスタンダード石油会社の副社長だった。焼夷弾1本の形状は、野球のバット半分程度の鋼鉄製の筒である。これを38発、鉄バンドで束ねたものを上空から投下すると、バンドが空中ではずれ、広い範囲にバラバラと落下し、家屋を燃やし、あたりを火の海にする。アメリカはテキサスの砂漠にわざわざ日本式の家屋を建てて実験し、効果が抜群であることを確かめていた。

 南太平洋のサイパン島を基地として、アメリカは昭和19年11月からB29による日本本土への空襲を開始していた。

 しかし、それは、(1)飛行機工場などの軍需工場を目標に、(2)日中、(3)高度1万メートルの上空から爆弾を投下するもので、命中率は平均5%程度にすぎなかった。

 同年12月29日、ホワイトハウスでルーズベルト大統領、マーシャル参謀総長らを含む秘密の作戦会議が開かれ、日本本土爆撃作戦を再検討した。そこで決まったのは、(1)民間人を直接の対象とし、(2)夜間、(3)低空飛行で焼夷弾を投下する、戦時国際法違反の「無差別爆撃」だった。


 ≪最大の戦争犯罪のひとつ≫

 この作戦変更に伴い、マリアナ3島の司令官のクビがすげ替えられた。民間人の家屋を焼く焼夷弾攻撃に反対していたハンセル少将にかわって、ドイツ・ハンブルクの絨毯(じゅうたん)爆撃をやり遂げたカーチス・ルメイ少将が任命された。

 ルメイは江戸時代の大火の50%が3月上旬に集中していることを調べ上げた。春先の強風が吹くこの時期が作戦には最も効果的だと分かった。3月10日は日露戦争の奉天会戦で日本が勝利した陸軍記念日だった。

 前日、マリアナ諸島を飛び立った325機のB29は、少量に抑えた燃料と満載の焼夷弾を抱えて東京を目指した。作戦計画に従ってまず、正方形と2本の対角線のライン上に焼夷弾を落として火の壁をつくり、住民の退路を断った上で、1平方メートル当たり3発、総重量2700トンの焼夷弾を、雨あられと無辜(むこ)の市民の頭上に降り注いだのである。

 ルメイは戦後、「もし、アメリカが戦争に負けていたら、私は間違いなく戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸い、私は勝者の方に属していた」と述べている。一夜にして10万の市民を焼き殺した「東京大空襲」は、第二次世界大戦の最大の戦争犯罪の一つであろう。

 東京都江東区で家具店を営む滝保清さん(現在80歳)は、64年前の3月10日、空襲による業火の中を逃げ惑っていた。当時16歳の中学生で、早くに父を亡くした保清少年は、数日前に運悪く足にけがをして歩けない祖父を背中に背負い、安全な方角を目指した。だが、火の勢いは激しくなる一方で、やがて祖父の背中のドテラが燃えだし、煙と熱風の渦に巻き込まれた。

 目の前で燃えている祖父を残し、「後ろ髪を引かれる思いで、生きたいという本能と窒息の苦しさから逃れたい一心で」(私家版冊子『赤い吹雪』より)逃げ出さざるを得なかった。

≪国立慰霊碑の建立を急げ≫

 長い年月がたち、つらい地獄の体験をやっと他人に語る心境になった滝さんは、平成3年、東京大空襲の犠牲者を追悼する慰霊碑の建立を求める署名運動を地元の仲間とともに始めた。

 本業をそっちのけで奔走し、3月10日の犠牲者の数を超える11万5000人の署名を集めきった。

 願いは国会に通じ、平成17年11月1日、衆議院本会議で国立慰霊碑建立の請願が採択された。昨年12月、自民党の国会議員からなる「戦災犠牲者の国立慰霊碑建立を目指す議員の会」(下村博文会長)が設立された。

 しかし、所管の総務省は、兵庫県姫路市に昭和31年に民間の寄付で建立した「全国戦災都市空襲死没者慰霊塔」があり、国が新たに慰霊碑をつくる予定はないという。滝さんは、個人や民間や自治体ではなく国が慰霊碑を建ててほしいと切望する。

 空襲犠牲者は、東京都のために死んだのではなく、国のために命をささげた点で戦死者と同じではないか、と言う。

 滝さんたちが署名運動を始めてからすでに18年の歳月がたつ。残された時間は少ない。政治と行政は、一刻も早く決断すべきである。(ふじおか のぶかつ)

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