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ニッポンのゆる~い日常

(4)士気の高さで清に圧勝

2013-05-03 19:05:38 | 歴史
【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】

(4)士気の高さで清に圧勝


http://sankei.jp.msn.com/life/news/130428/art13042808160001-n1.htm



■従軍記者も間に合わず


 雛(ひな)もなし男許(ばか)りの桃の宿

 明治28(1895)年の3月3日、俳人・正岡子規が詠んだ句である。

 子規はこの日、勤めていた「日本新聞」の従軍記者として日清戦争を取材するため、東京の新橋をたち清国の大連に向かった。


 新聞社内でささやかな送別の宴が開かれた。だが桃の節句にもかかわらず女性は一人もいない。それをおどけてみせた句なのだが、戦地に赴く子規の高揚感のようなものも感じさせる。

 だが長旅の末、4月に大連に着くと、戦争は日本の勝利でほぼ終わり、講和交渉が煮つまってきていた。子規の意気込みも空振りに終わってしまった。


 戦争は前年の明治27年8月1日、日清両国が互いに宣戦布告して始まったが、最初から日本が押しまくった。9月16日には朝鮮半島北部の平壌を攻略し、ほぼ朝鮮全土を制圧する。翌17日には「黄海の海戦」で清国の北洋水師(艦隊)を破り、この海域での優位を確立した。

 さらに10月、陸軍の第一軍が国境の川、鴨緑江を渡り満州(現中国東北部)に攻め込んだ。新たに編成された第二軍も遼東半島に上陸し、11月21日、北洋水師が拠点としていた旅順を陥落させた。


 翌明治28年になると、残った艦隊が逃げ込んでいた山東半島突端の港、威海衛(いかいえい)に攻撃の的をしぼった。陸軍が背後から要塞を攻めて砲台を奪い、海軍は表から水雷による攻撃で、北洋水師が誇る艦「定遠」に大打撃を与える。


 2月12日には艦隊の丁汝昌(ていじょしょう)提督が降伏を表明した。これによりいよいよ清の心臓部である直隷(ちょくれい)(現河北省)地方が攻撃対象にさらされることになった。



 清は休戦を求めた。3月19日、全権を委ねられた北洋大臣の李鴻章が来日、山口県下関の料亭「春帆楼」で、日本側全権の伊藤博文との間で講和交渉が始まる。


 4月17日には、清が朝鮮の独立を認めるなどとした下関講和条約が調印され、日清戦争はわずか9カ月足らずで、日本の勝利として終わった。


 この戦争には、アジアの権益にあやかろうとしている西欧の強国も強い関心を持ち、多くの軍人らが「視察」にきた。その西欧列強の「見立て」では、圧倒的に「清国乗り」だった。

 何しろアジアの大国である。軍事的にも優位にあるはずだった。特に海軍は、7千トン級の装甲砲塔艦「定遠」「鎮遠」の2隻を持つ清に対し、日本は3千~4千トン級の巡洋艦が中心だった。

 それでも日本が「圧勝」したのは、海軍の戦術が優れていたこともあったが、何といっても「士気の高さ」が違っていた。


 ほんの四半世紀ほど前、日本は明治維新により新しい国をつくった。政治家から軍人、兵士に至るまでこの新しい国を守りたいという固い決意を持っていた。朝鮮半島から清を追い出さなければ、日本がいつかその手に落ちるという危機感を共有していたのだ。


 開戦するや明治天皇は広島の大本営(戦時の作戦本部)に行幸、半年間も泊まり込まれた。周囲が寒いからと部屋にストーブをつけようとしても「戦地に暖房があるのか」と許されなかった。こうした姿勢が、士気を一段と鼓舞したのである。



 一方、清はもはや老いていた。開戦に当たっても、李鴻章らは最後まで回避論に立っており、朝鮮への援兵は遅れた。

 開戦後も兵たちの士気は上がらず、威海衛の戦いでは陸軍はさっさと砲台を捨てて逃走する。海軍でも日本軍の攻撃を受けると、兵たちが艦長らに銃を突きつけ降伏を迫った。

 両国民の戦争への意気ごみの違いが勝敗を決定づけたのだ。

 作家、司馬遼太郎氏は著書『坂の上の雲』で日清戦争を次のように総括している。

 「老朽しきった秩序(清国)と、新生したばかりの秩序(日本)とのあいだでおこなわれた大規模な実験というような性格をもっていた」



 
                        ◇



【プロフィル】李鴻章

 り・こうしょう 中国・清末期の外交、軍事をとりしきった政治家。1823年生まれ。曾国藩の幕僚として太平天国の乱鎮圧にあたり、その後、清国中枢の現河北省やその周辺を管轄する直隷総督兼北洋大臣として、大きな権力を握った。

 外国事情にも通じ「東洋のビスマルク」として国際的に知られ、ほとんどの外交を任された。日清戦争に負けたことで閑職に追いやられたが、その後ロシアと密約を結び、義和団事件後は、再び直隷総督兼北洋大臣に任命され、事態収拾に当たるなどした。1901年死去。

















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(3)清と戦う

2013-05-03 19:00:28 | 歴史
【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】

(3)清と戦う


http://sankei.jp.msn.com/life/news/130421/art13042108330001-n1.htm



■早かった先制攻撃の決断


 19世紀から20世紀にかけての東アジアでは、新興宗教団体が何度か歴史を動かしている。

 中国の清朝後期、大軍団で南京などの都市を占領し「太平天国」を名乗った洪秀全の拝上帝教がそうだった。やはり清朝末期に西欧列強に対抗して乱を起こした義和団も、白蓮教の流れをくむとされる宗教的な団体である。


 そして19世紀末、日本と清との戦いを呼び込んだのは、朝鮮半島に生まれた新興宗教「東学」だった。1860年、崔済愚(チェ・ジェウ)が起こした「東学」は儒教や仏教、道教を合わせたような教義だった。

 朝鮮にも伝わりつつあったキリスト教(西学)や、それに伴う西欧の文化に対抗する極めて排他的な宗教で、農民たちの支持を得て急速に広まった。「東学党」という政治結社までできた。

 その東学党を中心に、半島南西部の全羅道古阜郡というところで農民らが反乱を起こした。明治27(1894)年2月のことである。農民たちが郡による徴税の仕方に反発したためだが、「宗教一揆」だけに、団結は強い。5月には、とうとう全羅道の道都、全州を陥落させてしまった。

 だが当時の李氏朝鮮政府には鎮圧するだけの力がない。そこで半島に影響力を強める清国に助けを求めた。清の軍事、外交を握っていた李鴻章は、ただちに歩兵2千人に山砲8門をつけ全羅道の北、忠清道の牙山に派遣した。



 一方、日本である。全州陥落の情報を得るや、6月2日の閣議で混成一個旅団の派兵を決め、6日にはうち千人余りが広島・宇品港から首都・漢城(現ソウル)西方の仁川に先発した。日本人を保護するためとしていた。

 だがこの混成一個旅団は、邦人保護としてはあまりに立派すぎる陣容だった。しかも戦時に作戦を担当する「大本営」を、初めて広島に設置する。


 明らかに清の派兵に対し一戦を交える意志を示していた。このまま清が反乱を鎮圧すれば、李朝は完全にその軍門に下るだろう。そうなれば海峡を隔てた日本も危うい。この時代の日本人が共有していた危機感だった。


 しかも3月末に起きた金玉均暗殺事件も出兵を後押しした。金玉均は福沢諭吉らとも親交があった親日家で、朝鮮の開化派の代表だった。金が農民の乱に呼応するのを恐れた李朝政府が上海に誘い出し命を奪ったとされる。これが日本の世論をあおり、政府に強硬な対朝鮮政策を求めた。


 だがこうした日清両国の出兵を恐れた東学農民軍は11日には李朝政府と「和約」を結び、さっさと解散してしまった。振り上げたこぶしを振るえなくなった清は日本に対し、いっしょに撤兵しようと提案した。


 だがすでに戦時体制の日本は止まれない。清側の提案を拒否、逆に日清共同で朝鮮の「内政改革」にあたることを提案した。余計なお世話に見えても、「朝鮮が改革をしない限りまた反乱が起きる。それまで撤兵はできない」という理由からだった。



 清がこれを断ると22日、天皇臨席の会議で、内政改革協定が実現するまで撤兵しないことを決定した。そして25日には、仁川の部隊を首都・漢城南方の龍山にまで進出させる。何度も繰り返すが、当時の朝鮮が自立した近代国家となることは、日本の安全保障上どうしても必要だったからだ。


 さらに7月に入ると、李朝政府に対し、清軍の撤退を求めるなどの要求を行った上で23日未明、ついに軍事行動に出た。龍山の兵を王宮に突入させ、李朝政府を支配していた閔(びん)氏一族を追放する。これを受けて高宗国王は父親の大院君に政務を委ねた。


 日本軍はその大院君の「委任」という形で清軍を攻撃する。全て計画通りだった。海軍も黄海の豊島沖で清の輸送船を沈める。日清戦争の火ぶたが切られたのだ。

 両国の正式な「宣戦布告」は8月1日だった。日本陸軍は9月には再び仁川に上陸、北部の中心都市、平壌を落とし、優勢に戦線を広げていく。




                      ◇



【用語解説】清

 中国東北部の満州族による王朝。17世紀初め東北を統一、国号を「清」と改めた。1644年、李自成の反乱軍が北京を陥落させ「明」が滅ぶと、清は山海関を越えて中国本土に入った。李自成を追放して「清王朝」の成立を宣言、北京を都とした。

 18世紀までには、西の新疆(しんきょう)から南の雲南、東の台湾にまで勢力を広げ、中国の王朝史上最大の版図を得て隆盛を極めた。しかし19世紀になり英国とのアヘン戦争や、国内の太平天国の乱などにより衰退、日清戦争に負けたことが最後の打撃となり、1912年、辛亥(しんがい)革命で滅んだ。







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(2)大陸・半島そして日本 李朝の近代化求め清と対立

2013-05-03 18:50:47 | 歴史
【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】

(2)大陸・半島そして日本 李朝の近代化求め清と対立


http://sankei.jp.msn.com/life/news/130414/art13041408550001-n1.htm



 北朝鮮との国境を流れる鴨緑江の北側、中国遼寧(りょうねい)省に丹東という都市がある。戦前は安東と呼ばれ朝鮮半島から陸路、満州(中国東北部)へ行く入り口だった。

 対岸が北朝鮮の町、新義州である。上流部の国境は大半固く閉ざされているが、二つの都市は戦前に日本が架けた橋で結ばれ車や列車が行き来する。

 亡くなった北朝鮮の金正日総書記も何度かこの鉄橋を渡り、列車で北京などを訪問している。川幅は1キロ足らずで、中国大陸と朝鮮半島とが「地続き」であることを実感させる。

 この「地続き」ゆえに、朝鮮半島は有史以来、何度も北方民族の侵略を受けてきた。その都度これと戦うのか、従属するのかの決断を迫られた。

 一方、その朝鮮半島と海峡を隔てた日本はこの半島が「クッション」役をつとめたおかげで、中国大陸から直接の侵略を受けることはほとんどなかった。


 607年、聖徳太子が小野妹子を大陸の隋に派遣、煬帝に国書を渡したときもそうだった。

 「日出(いづ)る処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや」という内容だった。「我々は対等なんだよ」と、中国からの自立を宣言したようなものである。


 煬帝は怒ったというが、日本を攻めることはなかった。当時隋は朝鮮半島の高句麗と抗争中で、そんな余裕はなかった。そうした国際情勢を的確につかんでいた太子の「外交勝利」だった。


 ただ13世紀に中国や朝鮮半島を支配したモンゴルの元(げん)だけは半島を伝うなどして日本に攻めてきた。2度にわたる元寇(げんこう)である。

 鎌倉武士による必死の国家防衛戦と、襲ってきた「神風」のおかげで元への屈服を免れたが、日本人は半島が大陸の強大国の手に落ちることの恐怖を味わった。


 その恐怖心は明治になっても生きていた。幕末に開国し近代化の歩みを始めた日本は明治9(1876)年、李氏朝鮮(李朝)と日朝修好条規を結び、李朝の近代化と清からの独立とを強く求めた。李朝が背後の清国やロシアと対等な国になってくれなければ、日本も危ういと考えたのだ。


 だが明治15(1882)年、朝鮮で「壬午(じんご)の軍乱」といわれる暴動が起きると、危うさが早くも現実のものとなった。


 高宗国王の妃、閔妃(びんぴ)を中心に一族が実権を握る「閔氏政権」が、日本の軍人を教官に近代的な軍を創設しようとして訓練を始めた。李朝では伝統的に武官より文官が優遇され、外国に対抗できるような軍を備えてなかったからだ。「それではだめだ」と、日本の要請に応える形で「強い国」を目指したのである。


 だがこれに職を失う旧軍兵士らが反発、市民を巻き込んで暴動を起こした。日本公使館も襲い、教官の日本人軍人らが殺害された。日本は軍艦4隻などを首都漢城に近い仁川に結集させ、高宗国王に謝罪や損害賠償を求める。


 しかしその間に清が大軍を派遣して乱を鎮圧してしまった。この結果、日本が恐れた通り清の李朝への影響力が増し、ことあるごとに干渉するようになる。明治17年には、金玉均ら朝鮮の開化派と日本兵とが閔氏政権に対しクーデターを試みるが、これもまた清の軍に潰される。


 翌18年、日本と清との間で「天津条約」が結ばれた。両国とも朝鮮から撤兵し、今後出兵することがあれば互いに事前通告することを取り決めたのだ。

 だが高宗国王は、それに乗じて日本でも清でもなくロシアと何度も秘密協定を結び、その力に頼ろうとし、緊張を高めた。


 こうした中、明治23年、日本の第1回帝国議会が開かれた。そこで施政方針演説に臨んだ首相、山県有朋は、日本が独立自衛するための「利益線」を保護する、と述べた。利益線とは朝鮮半島のことであり、半島を守り抜くことを宣言したのである。

 そして27年、朝鮮で「東学党の乱」が起きると、日本と清とがついに全面衝突する。




                        ◇



【用語解説】李氏朝鮮

 1392年、太祖・李成桂が仕えていた高麗を滅ぼして樹立した朝鮮の王朝。李朝ともいう。首都を開城から漢陽(後に漢城、現ソウル)に移し、儒教を事実上の国教とし、外交的には中国・明との関係を重視する親明政策をとった。15世紀までには官僚機構を整え、農業技術や文化も発展し隆盛期を迎えたが次第に衰退する。

 対外的には朝鮮国、大朝鮮国を名乗り、1897年からは大韓帝国と称した。だが1910年、日露戦争に勝った日本に併合され、520年近い歴史に終止符を打った。









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(1)大津事件 もう一つの顔

2013-05-03 18:50:31 | 歴史
【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】

(1)大津事件 もう一つの顔


http://sankei.jp.msn.com/life/news/130407/art13040709290000-n1.htm



 ■募るロシアへの警戒心


 滋賀県大津市は日本一の湖、琵琶湖の南岸に位置する。市内には有名な瀬田の唐橋や紫式部が「源氏物語」を書いたとされる石山寺がある。京都に近いこともあってこの季節、観光客で賑わう。

 その大津市のほぼ中央、滋賀県庁近くの旧東海道の民家軒下に小さな石碑がたっている。「此附近露國皇太子遭難之地」とある。


 明治24(1891)年、日本を訪れていたロシアのニコライ皇太子が、警衛の警察官に斬りつけられるという「大津事件」が起きた場所なのである。

 この年の4月末長崎に到着したニコライ皇太子はその後、神戸から京都を経て5月11日、船で琵琶湖遊覧を楽しんだ。その後県庁に向かう途中、津田三蔵という元武士の警察官にサーベルで斬りつけられたのだ。

 皇太子の傷は浅くてすんだ。だがこのとんでもない事件に日本中が震え上がった。




 ロシアと言えば当時、世界有数の軍事力を誇る大国だった。その将来の皇帝である皇太子を傷つけてしまった。ロシアが本気で報復に出たりすれば、まだ近代化の途上にある日本など、ひとたまりもないからだ。

 明治天皇が直ちに京都へ行幸、皇太子を見舞う。ロシアに謝罪使の派遣を検討もした。しかし皇太子はこの後、東京へ向かう日程をキャンセルし日本を後にする。


 ロシアの報復を恐れる日本政府は、津田に刑法の皇室への罪を適用、死刑にしようとした。これに対し大審院長、児島惟謙(こじま・いけん)はこの政府の圧力を退け「皇室罪は外国の皇族には適用できない」と、無期徒刑の判決を下した。

 このため現代では「大津事件」と言えば、児島が司法の独立を守ったことだけが強調される。



 その陰で意外と知られていないのが、ニコライ皇太子が日本を訪れたいきさつであり、当時の日本を取り巻く国際情勢である。皇太子は実は日本海に面した沿海州の都市、ウラジオストクで行われるシベリア鉄道の起工式に臨席するための旅の途中だった。


 前年の10月、首都ペテルブルクを鉄道で出発、オーストリアのウィーンを経てアドリア海のトリエステから軍艦に乗る。この情報を得た日本がロシア側と交渉、途中での日本訪問が実現したのだ。事件の後、皇太子はそのままウラジオストクに入り、予定通り起工式に臨席している。


 同じロシアの欧州とアジアとを結ぶシベリア鉄道の敷設はこの国の悲願だった。シベリアの開発ばかりでなく、その先の満州(中国東北部)や朝鮮半島にまで権益を拡大するには鉄道が必須だったからだ。1850年代から計画され、ようやくこの年、西側のチェリャビンスクと東のウラジオストクの双方から工事が始まった。皇太子とは別の船で千人を超える作業員が向かっていたという。


 日本にすれば、これは脅威だった。地図を開けば分かるように、ウラジオストクから陸続きに200キロも南下すれば、もう朝鮮半島である。シベリア鉄道が開通すれば、この半島は早晩ロシアの支配下に置かれるかもしれない。半島が落ちれば次は日本である。

 西欧の強国の力がアジアにも押し寄せる植民地主義時代に生きた日本人なら誰もが抱いた危機感であった。ロシアと戦う力などないと自覚する日本政府は「友好」を育むべくニコライ皇太子を日本に招いたのだった。



だが一般国民は、もっと強い恐怖感をもって受け止めていた。吉村昭氏の『ニコライ遭難』によれば、皇太子一行の来日の目的は遊覧ではなく、軍事偵察のためではないかという風評が広まっていた。いずれシベリア鉄道を使って日本を攻略するための一歩だというわけである。津田もその影響を受けていたのかもしれない。

 いずれにせよ日本は、朝鮮半島やその北の満州をめぐるロシアへの脅威から「富国強兵」策を進める。それが日清、日露両戦争や日韓統合などにつながっていくのである。

 

                 ◇



【用語解説】シベリア鉄道

 ロシアのモスクワとウラジオストクとを結ぶ全長9000キロ余りの鉄道の通称。このうちウラル山脈以東のシベリア横断部分は1891年、ウラジオストクとチェリャビンスクの東西2方向から着工した。アムール川沿いの現在の路線が完成したのは1916年だが、ロシアは途中のチタから満州を横断してショートカットする東清鉄道の建設を清国に認めさせ、1903年、いちはやくロシアの欧州と極東が結ばれた。







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放置された「昭和の不平等条約」

2013-05-03 08:50:03 | 正論より
5月3日付      産経新聞【正論】より


放置された「昭和の不平等条約」

「国民の憲法」考    評論家、拓殖大学大学院教授・遠藤浩一氏


http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130503/plc13050303100001-n1.htm



 ■吉田も当初は現行憲法に疑問


 幣原喜重郎内閣外相として、さらには首相(第1次内閣)として現行憲法の制定・施行作業に携わった吉田茂は、憲法草案ができるまでの過程について、「外国との条約締結の交渉と相似たものがあった」、むしろ「条約交渉の場合よりも一層“渉外的”ですらあった」と証言している。併せて、日本側が「消極的」「漸進主義的」であったのに対し、総司令部側は「積極的」「抜本的急進的」だった、とも(『回想十年』)。


 現行憲法の本質が端的に語られていると思う。


 被占領期、すなわち主権が停止した特殊な時期に、日本国憲法は勝者と敗者との渉外交渉によって成立した。「条約締結」の目的は勝者による完全かつ円滑なる敗者の支配にあり、そのためには「抜本的急進的」にわが国の精神と諸制度を解体する必要があった。

 いってみれば当時のわが国は「昭和の不平等条約」を呑(の)まされたわけである。不平等条約であればこそ、諸国民の公正と信義は信頼するけれども日本国及び日本国民は信頼に値しないと言わんばかりのいびつな思想が罷(まか)り通る。

 吉田は「新憲法た(な)のだるまも赤面し」との戯(ざ)れ句を残しているが、後に護憲派に転じる姿をみせた彼も、制定当初は恥ずかしい憲法だと思っていたらしい。

 幕末から明治維新にかけて欧米列強との間で取り交わされた不平等条約は「百弊千害日に月に滋蔓(じまん)」させる代物だった。明治の為政者たちは条約のすみやかな改正こそ「維新中興に随伴する重要問題」と考え、行動した(陸奥宗光『蹇蹇録(けんけんろく)』)。およそ40年をかけて改定にこぎつけたのだが、相手のあることだから、苦労は尋常ではなかった。

 昭和の不平等条約も「百弊千害日に月に滋蔓」しているにもかかわらずそして専ら日本人自身の決断で改定できるにもかかわらず、こちらは施行から66年になるというのに放置されたままである。






 ≪岸は改正目指して果たせず≫


 筋論からいえば、本来主権回復と時を措(お)かずに自主憲法制定に着手しなければならなかった。ところが、吉田は現行憲法を維持しつつ国際社会に復帰する道を選んだ。世論の反発を恐れたのではない。北朝鮮による韓国侵攻(朝鮮戦争)を目の当たりにすれば、さすがの日本人も、「諸国民」には信頼できそうな者とそうでない者があることに気付いた。世論は再軍備を支持し始めていた。

 他方、アメリカも日本は敵ではなく友たり得ると得心した。講和の予備交渉の過程で米国は日本に再軍備を求めたが、これはほんの4年前に自らが押しつけた憲法-すなわち不平等条約の改定をあちら側から求めてきたに等しい。

 これに対して吉田はあくまでも護憲を貫いた。少なくともそういうポーズをとった。そこで選択したのは、日米安保条約を締結して、数年前まで敵国だった米国に日本の安全保障を委ねるという奇策だった。ところが第1次安保条約には米国による日本防衛義務の不明記など重大かつ屈辱的な欠陥があった。

 全面講和論を退け、自由陣営の一員として主権を回復させたのは吉田茂の偉大な業績である。岸信介も「戦後最高、最大」の決断、と絶賛している(『岸信介回顧録』)。とはいえ、“不平等条約”を放置したままでは、独立を完成したことにはならない。そこに岸の問題意識があった。

 自由民主党結党を主導し、3代目(実質的には初代)の総理・総裁となった岸は、「真の独立」をめざした。それは結党時の自民党の党是でもあった。「親米」と「自立」を両立させようと、彼は決意した。

 具体的には、第1に経済成長策によって経済基盤を確かなものにする。第2に日米安全保障条約をより双務的なものに改定する(岸自身の表現では「日米関係の合理化」)。そして第3に憲法改正によって独立を完成する。





 ≪岸、吉田の孫に継がれた天命≫


 第1の課題は池田勇人通産相の献策を採用し、軌道に乗せた。第2についても反安保騒擾(そうじょう)の中、決死の覚悟で決着させた。しかし第3の憲法改正は実現せぬまま退陣を余儀なくされた。

 弟の佐藤栄作が首相だった頃まで、ひそかに政権復帰を考えていたと、岸は自ら述べている(『岸信介証言録』)。後任の池田内閣以降、憲法改正への意欲が急速に薄れていったことに危機感を抱いた彼は、自らの手で憲法改正方針を政府として打ち出したいと考えたのである。

 岸の政権復帰は実現しなかったが、孫の安倍晋三首相はいったん辞して、再び政権に就いた。「戦後レジームからの脱却」を実現するためである。憲法改正がそれに随伴する重要問題であることは論を俟(ま)たない。吉田の孫・麻生太郎財務相と手を携えて「昭和の不平等条約」改定を実現するのは、天命というべきであろう。(えんどう こういち)














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