【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】
(4)士気の高さで清に圧勝
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130428/art13042808160001-n1.htm
■従軍記者も間に合わず
雛(ひな)もなし男許(ばか)りの桃の宿
明治28(1895)年の3月3日、俳人・正岡子規が詠んだ句である。
子規はこの日、勤めていた「日本新聞」の従軍記者として日清戦争を取材するため、東京の新橋をたち清国の大連に向かった。
新聞社内でささやかな送別の宴が開かれた。だが桃の節句にもかかわらず女性は一人もいない。それをおどけてみせた句なのだが、戦地に赴く子規の高揚感のようなものも感じさせる。
だが長旅の末、4月に大連に着くと、戦争は日本の勝利でほぼ終わり、講和交渉が煮つまってきていた。子規の意気込みも空振りに終わってしまった。
戦争は前年の明治27年8月1日、日清両国が互いに宣戦布告して始まったが、最初から日本が押しまくった。9月16日には朝鮮半島北部の平壌を攻略し、ほぼ朝鮮全土を制圧する。翌17日には「黄海の海戦」で清国の北洋水師(艦隊)を破り、この海域での優位を確立した。
さらに10月、陸軍の第一軍が国境の川、鴨緑江を渡り満州(現中国東北部)に攻め込んだ。新たに編成された第二軍も遼東半島に上陸し、11月21日、北洋水師が拠点としていた旅順を陥落させた。
翌明治28年になると、残った艦隊が逃げ込んでいた山東半島突端の港、威海衛(いかいえい)に攻撃の的をしぼった。陸軍が背後から要塞を攻めて砲台を奪い、海軍は表から水雷による攻撃で、北洋水師が誇る艦「定遠」に大打撃を与える。
2月12日には艦隊の丁汝昌(ていじょしょう)提督が降伏を表明した。これによりいよいよ清の心臓部である直隷(ちょくれい)(現河北省)地方が攻撃対象にさらされることになった。
清は休戦を求めた。3月19日、全権を委ねられた北洋大臣の李鴻章が来日、山口県下関の料亭「春帆楼」で、日本側全権の伊藤博文との間で講和交渉が始まる。
4月17日には、清が朝鮮の独立を認めるなどとした下関講和条約が調印され、日清戦争はわずか9カ月足らずで、日本の勝利として終わった。
この戦争には、アジアの権益にあやかろうとしている西欧の強国も強い関心を持ち、多くの軍人らが「視察」にきた。その西欧列強の「見立て」では、圧倒的に「清国乗り」だった。
何しろアジアの大国である。軍事的にも優位にあるはずだった。特に海軍は、7千トン級の装甲砲塔艦「定遠」「鎮遠」の2隻を持つ清に対し、日本は3千~4千トン級の巡洋艦が中心だった。
それでも日本が「圧勝」したのは、海軍の戦術が優れていたこともあったが、何といっても「士気の高さ」が違っていた。
ほんの四半世紀ほど前、日本は明治維新により新しい国をつくった。政治家から軍人、兵士に至るまでこの新しい国を守りたいという固い決意を持っていた。朝鮮半島から清を追い出さなければ、日本がいつかその手に落ちるという危機感を共有していたのだ。
開戦するや明治天皇は広島の大本営(戦時の作戦本部)に行幸、半年間も泊まり込まれた。周囲が寒いからと部屋にストーブをつけようとしても「戦地に暖房があるのか」と許されなかった。こうした姿勢が、士気を一段と鼓舞したのである。
一方、清はもはや老いていた。開戦に当たっても、李鴻章らは最後まで回避論に立っており、朝鮮への援兵は遅れた。
開戦後も兵たちの士気は上がらず、威海衛の戦いでは陸軍はさっさと砲台を捨てて逃走する。海軍でも日本軍の攻撃を受けると、兵たちが艦長らに銃を突きつけ降伏を迫った。
両国民の戦争への意気ごみの違いが勝敗を決定づけたのだ。
作家、司馬遼太郎氏は著書『坂の上の雲』で日清戦争を次のように総括している。
「老朽しきった秩序(清国)と、新生したばかりの秩序(日本)とのあいだでおこなわれた大規模な実験というような性格をもっていた」
◇
【プロフィル】李鴻章
り・こうしょう 中国・清末期の外交、軍事をとりしきった政治家。1823年生まれ。曾国藩の幕僚として太平天国の乱鎮圧にあたり、その後、清国中枢の現河北省やその周辺を管轄する直隷総督兼北洋大臣として、大きな権力を握った。
外国事情にも通じ「東洋のビスマルク」として国際的に知られ、ほとんどの外交を任された。日清戦争に負けたことで閑職に追いやられたが、その後ロシアと密約を結び、義和団事件後は、再び直隷総督兼北洋大臣に任命され、事態収拾に当たるなどした。1901年死去。
(4)士気の高さで清に圧勝
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130428/art13042808160001-n1.htm
■従軍記者も間に合わず
雛(ひな)もなし男許(ばか)りの桃の宿
明治28(1895)年の3月3日、俳人・正岡子規が詠んだ句である。
子規はこの日、勤めていた「日本新聞」の従軍記者として日清戦争を取材するため、東京の新橋をたち清国の大連に向かった。
新聞社内でささやかな送別の宴が開かれた。だが桃の節句にもかかわらず女性は一人もいない。それをおどけてみせた句なのだが、戦地に赴く子規の高揚感のようなものも感じさせる。
だが長旅の末、4月に大連に着くと、戦争は日本の勝利でほぼ終わり、講和交渉が煮つまってきていた。子規の意気込みも空振りに終わってしまった。
戦争は前年の明治27年8月1日、日清両国が互いに宣戦布告して始まったが、最初から日本が押しまくった。9月16日には朝鮮半島北部の平壌を攻略し、ほぼ朝鮮全土を制圧する。翌17日には「黄海の海戦」で清国の北洋水師(艦隊)を破り、この海域での優位を確立した。
さらに10月、陸軍の第一軍が国境の川、鴨緑江を渡り満州(現中国東北部)に攻め込んだ。新たに編成された第二軍も遼東半島に上陸し、11月21日、北洋水師が拠点としていた旅順を陥落させた。
翌明治28年になると、残った艦隊が逃げ込んでいた山東半島突端の港、威海衛(いかいえい)に攻撃の的をしぼった。陸軍が背後から要塞を攻めて砲台を奪い、海軍は表から水雷による攻撃で、北洋水師が誇る艦「定遠」に大打撃を与える。
2月12日には艦隊の丁汝昌(ていじょしょう)提督が降伏を表明した。これによりいよいよ清の心臓部である直隷(ちょくれい)(現河北省)地方が攻撃対象にさらされることになった。
清は休戦を求めた。3月19日、全権を委ねられた北洋大臣の李鴻章が来日、山口県下関の料亭「春帆楼」で、日本側全権の伊藤博文との間で講和交渉が始まる。
4月17日には、清が朝鮮の独立を認めるなどとした下関講和条約が調印され、日清戦争はわずか9カ月足らずで、日本の勝利として終わった。
この戦争には、アジアの権益にあやかろうとしている西欧の強国も強い関心を持ち、多くの軍人らが「視察」にきた。その西欧列強の「見立て」では、圧倒的に「清国乗り」だった。
何しろアジアの大国である。軍事的にも優位にあるはずだった。特に海軍は、7千トン級の装甲砲塔艦「定遠」「鎮遠」の2隻を持つ清に対し、日本は3千~4千トン級の巡洋艦が中心だった。
それでも日本が「圧勝」したのは、海軍の戦術が優れていたこともあったが、何といっても「士気の高さ」が違っていた。
ほんの四半世紀ほど前、日本は明治維新により新しい国をつくった。政治家から軍人、兵士に至るまでこの新しい国を守りたいという固い決意を持っていた。朝鮮半島から清を追い出さなければ、日本がいつかその手に落ちるという危機感を共有していたのだ。
開戦するや明治天皇は広島の大本営(戦時の作戦本部)に行幸、半年間も泊まり込まれた。周囲が寒いからと部屋にストーブをつけようとしても「戦地に暖房があるのか」と許されなかった。こうした姿勢が、士気を一段と鼓舞したのである。
一方、清はもはや老いていた。開戦に当たっても、李鴻章らは最後まで回避論に立っており、朝鮮への援兵は遅れた。
開戦後も兵たちの士気は上がらず、威海衛の戦いでは陸軍はさっさと砲台を捨てて逃走する。海軍でも日本軍の攻撃を受けると、兵たちが艦長らに銃を突きつけ降伏を迫った。
両国民の戦争への意気ごみの違いが勝敗を決定づけたのだ。
作家、司馬遼太郎氏は著書『坂の上の雲』で日清戦争を次のように総括している。
「老朽しきった秩序(清国)と、新生したばかりの秩序(日本)とのあいだでおこなわれた大規模な実験というような性格をもっていた」
◇
【プロフィル】李鴻章
り・こうしょう 中国・清末期の外交、軍事をとりしきった政治家。1823年生まれ。曾国藩の幕僚として太平天国の乱鎮圧にあたり、その後、清国中枢の現河北省やその周辺を管轄する直隷総督兼北洋大臣として、大きな権力を握った。
外国事情にも通じ「東洋のビスマルク」として国際的に知られ、ほとんどの外交を任された。日清戦争に負けたことで閑職に追いやられたが、その後ロシアと密約を結び、義和団事件後は、再び直隷総督兼北洋大臣に任命され、事態収拾に当たるなどした。1901年死去。