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ニッポンのゆる~い日常

北への軍事的措置は非核化を強要し、「核の傘」の信頼性を保つためしかるべき措置だ

2017-04-24 17:17:59 | 正論より
4月24日付    産経新聞【正論】より


北への軍事的措置は非核化を強要し、「核の傘」の信頼性を保つためしかるべき措置だ 

防衛大学校教授・倉田秀也氏


http://www.sankei.com/column/news/170424/clm1704240007-n1.html


 クリントン政権下、後に「第1次核危機」と呼ばれる1993年から94年、北朝鮮は既に韓国を「人質」にとっていたが、日本はまだそうはなっていなかった。当時の北朝鮮は日本を攻撃できる弾道ミサイル能力を持とうとしたばかりだった。従って「第1次核危機」の前線は軍事境界線に引かれていた。だからこそ、板門店での南北協議で北朝鮮代表は「ソウルを火の海」にすると述べた。


 四半世紀後、北朝鮮は日本も「人質」にとる核ミサイル能力を蓄積し、米本土を射程に収める大陸間弾道ミサイル(ICBM)の実戦配備に及ぼうとしている。


 今日の米朝関係はもはや、ブッシュ政権期の「第2次核危機」に続く「第3次核危機」と呼ばれてよい。半世紀以上前、ソ連がカリブ海で展開した「キューバ危機」に相当する危機をいま、北朝鮮が挑んでいる。ただし、北朝鮮が日本への弾道ミサイル能力をもった以上、「第3次核危機」の前線は、軍事境界線だけでなく同時に日本海にも引かれている。過日、宋日昊・日朝国交正常化交渉大使も、今回の危機で「一番の被害は日本が受ける」と述べた。




≪終止符が打たれた「戦略的忍耐」≫


 過去の「核危機」を振り返ってみると、第2期ブッシュ政権以降、軍事的措置の比重は低下の一途を辿(たど)っていた。オバマ政権の「戦略的忍耐」はそれを端的に示していた。「戦略的忍耐」は事実上、軍事的措置をとる可能性を予(あらかじ)め排していた。トランプ政権が「戦略的忍耐」に終止符を打ったと断言している以上、北朝鮮が警告を無視して、核ミサイル開発に邁進(まいしん)すれば、米国が軍事的措置をとる可能性は排除できない。

 それは確実に北朝鮮による「人質」への武力行使を招くであろう。ソウルへの攻撃で朝鮮半島は「戦時」に陥る。その際、さらに在日米軍基地が使用されれば、北朝鮮の反撃は日本にも及ぶ。それは「核先制打撃」とのレトリックその儘(まま)に、核攻撃を含むかもしれない。北朝鮮がこの戦争で生き残るとは考えにくい。しかし、そのとき国際社会は、北東アジアに破滅的結果がもたらされるリスクを負わなければならない。





≪北朝鮮の非合理性による抑止≫


 北朝鮮が自ら強調するように、その核開発が米国の対北「敵視政策」からの自衛的措置なら、それに固執して自らの体制を終焉(しゅうえん)させる戦争を引き起こすのは非合理この上ない。


 だが、「核先制打撃」を含む非合理な選択を誇示することこそ、北朝鮮の抑止戦略の中核をなす。それは、過去の「核危機」で、北朝鮮が自滅に韓国を巻き込む非合理な選択をとる覚悟を示したことが、米国に同盟国の保全という選択を取らせたという「成功体験」に裏づけられている。

 もとより、米国がこの破滅的結果を回避するのは困難ではない。「戦略的忍耐」宜(よろ)しく、北朝鮮の核ミサイル開発に行動を起こさなければよい。しかし、それは米国にとって北朝鮮の核ミサイルの増殖という代価を強いる。韓国と日本もまたその間、その「人質」であり続けなければならない。

 北朝鮮がICBMを実戦配備すれば、米国は朝鮮半島での軍事行動の際、愈々(いよいよ)ワシントンを犠牲にしなければならないかもしれない。それは米国が韓国と日本に差し出す「核の傘」の信頼性を低下させ、北朝鮮に行動の自由を与える。米国の北朝鮮への軍事的措置に伴うリスクは、時間の経過に伴って高まり、それゆえ、軍事的措置の可能性を示すことによる抑止力は低下する。時間はトランプ政権には味方していない。





≪同盟ゆえのリスクを共有せよ≫


 北朝鮮を終焉に導くためには破滅的な結果を甘受すべきだというのではない。外交的解決の余地は残されなければならない。


 だが、「第1次核危機」を振り返ってみても、当時の北朝鮮は初の核実験を遡(さかのぼ)ること十年余前、日本海を越える弾道ミサイル能力も欠いていた。その北朝鮮を米朝「枠組み合意」で核活動の凍結に導くまで、国際社会は極度の緊張の下に置かれた。既に核ミサイル能力を蓄積させた北朝鮮に非核化を強要するのに、国際社会はそれ以上の緊張を覚悟しなければならない。


 北朝鮮に対する軍事的措置は一見、同盟国を危殆(きたい)に晒(さら)す非合理なオプションだが、北朝鮮に非核化を強要し、「核の傘」の信頼性を保つためには示されてしかるべき措置とはいえないか。日本がその措置に伴う破滅的な結果を恐れるあまり、その措置の効力を減殺する言動をとれば、外交的解決はむしろ遠ざかることになる。

 同盟とは脅威を共有する国家間の自己保全の取り決めである。同盟国同士は脅威の高まりに懸念を共有したとき、それを低減させるべく共通の行動をとる。その限りで、同盟とは安心供与の取り決めであると同時に、脅威低減のためのリスク共有の取り決めでもある。日米同盟もまた、日本がコストさえ支払っていれば、リスクを負うことなく、米国から信頼できる「核の傘」が差し出され続けるほど、所与の取り決めではない。(防衛大学校教授・倉田秀也 くらたひでや)









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我が国に迫る存立の危機は深刻だ 国家主権の尊厳に新たな認識持て 

2017-04-24 16:25:32 | 正論より
4月21日付     産経新聞【正論】より  


我が国に迫る存立の危機は深刻だ 国家主権の尊厳に新たな認識持て 

東京大学名誉教授・小堀桂一郎氏


http://www.sankei.com/column/news/170424/clm1704240006-n1.html



≪条約発効65年の記念日≫


 本年も亦(また)4月28日には、対連合国平和条約発効の意味を想起すべき国家主権回復記念日を迎へる。昭和27年のこの日から数へて65年を経過した事になる。平成9年に一部民間有志が発起人となり、この日を国民の記憶に確乎と刻むために公式の祝日とせよと要望する「主権回復記念日国民集会」を開催した時からも満20年が過ぎた。初回と変らぬ主張を掲げ続けてゐるこの集会も第21回である。


 此の間、平成25年のこの日は前年政権の座に再起した安倍晋三内閣により「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」が政府主催の形で挙行され天皇・皇后両陛下の臨御を仰ぐといふ慶事もあつた。

 政府主催の記念式典はその年限りの盛儀として終つたが、元来の発起人一同はその翌年以降も引続き最終目標の達成に向けて、連年記念集会の開催と終始変らぬ国民への訴へかけを絶やしてゐない。

 最終目標とは、もちろん祝日の一日追加などといふ事ではなく、国家の政治・法制・経済・文化等諸般の面での「自立」を達成すべき国民の気概の育成である。

 ところで昨年の秋以来、国際社会には、独立国家主権の不可侵性に向けて新たなる認識を促す底の国家的規模の精神現象が期せずして次々と生じてゐる。


 その第一は、英国のEU離脱決議を断行させた彼国の国民投票である。元来EUとは欧洲大陸に於ける各国家の個別的歴史的性格を減削し、相互の同質化を進める事で経済生活の合理化を図らうとする、平和志向ではあるが、至極功利的な構想である。それに対し、経済的不利の代償に甘んじてでも英国独自の国政伝統を保守する事の誇りを忘れてゐない、健全な中間層が意地を見せた形だつた。


 第二が、年明けて間もなく発足したアメリカ合衆国の新大統領が標榜(ひょうぼう)する自国第一主義の政策である。それは日本のメディアがとかく歪(ゆが)めて伝へてゐる様な排他的国家エゴイズムの露骨な誇示と見るべきものではなく、自国民の安寧と繁栄とに責任を有する国政の担当者としての全うな自覚を語つてゐる迄(まで)である。それは国家主権の至高を国是とする、との一種の主権宣言なのだと見てもよい。





≪中国の侵略的野心を抑止≫


 さうとすれば、我が国の首相も合衆国大統領と相対する時は昂然と同じ自覚を表明されても、却つて相互の国政責任感を理解し合へる関係に立てるはずであり、現に安倍氏はその関係の樹立に成功してをられるのではないか。


 第三は、中華人民共和国の共産党独裁政府の覇権主義的膨張的野心に対し、その圧力の脅威を実感してゐる周辺の東アジア自由主義諸国の防衛的な主権意識である。それら諸国は弱小国と呼ぶほどの微々たる存在ではないが、いづれも各自一箇の国力のみを以てしては、中国の強悍な覇権意志との対決には堪へきれないであらう。その国々にとつて、ここで我が日本国が国家主権の不可侵性について毅然たる姿勢を示すならば、それにより我が国こそ中国の侵略的野心を抑止し得る、信頼すべき盟邦であると映るであらう。そこに我が国としても、東アジア安全保障体制構築のための幾つかの布石を、求めずして確保できるといふ結果が期待できる。





≪危機克服への最強の原理≫


 終りに、主権回復記念日は又、言ふ迄もなく講和条約発効記念日でもある。第二次世界大戦に於ける我が国と交戦国及び敵対した連合諸国の一員との戦争状態はサンフランシスコ平和条約とそれに続く二国間の平和条約によつて完全に解決済である。平和条約が締結されて65年を過ぎた現在、条約成立以前に生じた各種紛争にまつはる相互間の利害得失についての補償義務は一切解消してゐる。この事は所謂歴史戦の攻防が依然として尾を曳き、その跡始末に苦しむ事の多い我が国として、一の大原則として官民共に見解を固めておく必要のある大事である。


 世間には頭記の国民集会を目して、その様な内輪の同志達だけの会合で如何(いか)なる聲明(せいめい)を発しようと広く江湖への影響などは考へられず、意味の薄い努力であると見下す人の方が多いであらう。たしかにその様な弱味はある。マスメディアが集会の決議となつた意見を報道してくれないとすれば、その集会は世論の一端として認められる事もなく、存在もしなかつたと同じ事になるからである。

 国家主権の尊厳を再認識せよとの国民の要望が一の事件となるためには、やはり多くの政治家諸氏が集会に参加し、国民の聲(こえ)を直接耳で聞き、それを諸氏の政見に反映してくれるのでなくてはならない。即ちこの集会が一の政治的事件となるのでなくてはならない。

 現在我が国に迫つてゐる国家存立の危機の様相は、実は大衆社会の泰平の眠りとは霄壌(しょうじょう)の差を有する深刻なものである。政治家達はその危険性を確と認識し、斉しく警世の聲を挙げるべきだ。そして危機克服のための最強の原理としての国家主権の尊厳、自力による自存自衛の完遂といふ国民集会の連年の要請に唱和して頂(いただ)きたい。(東京大学名誉教授・小堀桂一郎 こぼりけいいちろう)







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