lurking place

ニッポンのゆる~い日常

大手メディアが悉く敗退する映像に快哉を叫ぶ声が続出

2012-07-06 11:54:22 | マスコミ
大手メディアが悉く敗退する映像に快哉を叫ぶ声が続出

「もっと勉強してこい!」橋下ユーチューブが 白日の下に晒す政治記者たちの「無知と欺瞞」

文=上杉隆(社団法人自由報道協会代表)


http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/sapio-20120705-01/1.htm



討論番組への「遅刻」を揶揄したNHK、たびたび政策に反対してきた朝日新聞、出自を問題にした週刊文春、週刊新潮……。  橋下徹氏はそうしたメディアをツイッターなどを使って激しい言葉で批判してきた。通常の記者会見や囲み取材においても、単に質問に答えるだけでなく、記者と議論になることが多い。そうした“バトル”において橋下氏がメディアに突きつけている問題の本質は何なのか。



 去る5月8日、大阪市庁に登庁した橋下徹市長に対して行なわれた「囲み取材」において、橋下氏とMBS(毎日放送)の女性記者との間で30分近くにわたって繰り広げられた“バトル”が、ネット上や一部の紙媒体で大きな話題になった。


◆取材現場の可視化が意味するもの


 MBSの記者は、3月に行なわれた大阪府の府立学校の卒業式における君が代の起立斉唱命令について質問したのだが、記者が基本的な事実関係について理解していないと感じた橋下氏は、「起立斉唱命令は誰が誰に出したのか」と逆質問した。「質問するのはこちらだ」と言って記者はなかなか答えようとしないが、橋下氏が繰り返し答えを求めると、ようやく「(命令の主体は)教育長」などと答えた。だが、記者の答えはいずれも間違いだった(正しくは「教育委員会が」、「全教員に」)。


 この他にも、記者が、教育行政における教育委員会と首長の権限分配などについて理解していないと受け取れる質問を繰り返したため、橋下氏は「勉強不足だ」「取材をする側として失礼だ」「とんちんかんな質問だ」などと強い口調で反論した。

 後述するように、この記者会見の動画はネット上にアップされており、それを見た一般人からは「橋下の完全勝利」「大手メディア記者の敗北」といった快哉を叫ぶ書き込みが相次いだ。その後、MBSはこの会見をどのように報じたか。


 この3日後、MBSの夕方の報道番組「VOICE」の中で15分程度、君が代の起立斉唱問題が批判的に取り上げられた。そこで使われた会見の映像は、橋下氏から批判された記者の質問や記者を批判する橋下氏の言葉が全てカットされ、起立斉唱問題についての橋下氏の強い口調の発言だけがつなぎ合わされていた。


 仮に視聴者が番組だけを見たならば、橋下氏がいかにもエキセントリックな人物であり、自らの権限で強権的に起立斉唱を行なわせたという印象を持ったとしてもおかしくない作り方だった。質問した記者の「勉強不足」は隠されている。


 実はこれはメディアの常套手段である。何らかの理由で気に入らない政治家、自らと異なる主張を持つ政治家などを貶めるために、平気で恣意的な編集を行なうのである。もちろん、自らの「勉強不足」という恥を晒すことはしたくないので、自分たちの的外れな質問、意味のない質問はネグり、“なかったこと”にしてしまう。

 だが、インターネットの発達した今、そうした情報コントロールや隠蔽は通じなくなってきた。



 よく知られていることだが、橋下氏の定例記者会見は市のHPで生中継されている。つまり、生の情報=橋下氏の発言を、一切の加工なしに流す「ダダ漏れ」スタイルを取っているのである。しかも、アーカイブとして保存される。「囲み取材」の映像も、市のHPからリンクされたユーチューブにアップされている。そうした映像は過去に遡って、誰もが、いつでも、自由に見ることができる。もちろん、これは橋下氏の方針だ。

 これにより、記者会見という取材現場が一般の人に向けて可視化され、メディアによる恣意的な編集が暴露され、メディアの無知、無理解、不勉強などが白日の下に晒されてしまうようになったのだ。


 実際、橋下氏はMBSの番組が放送された後のツイッターで、〈僕と記者とのやり取りが全て可視化されていて良かった〉〈番組見たらびっくりしたよ。記者とのやり取りは全部カットされて僕は頭のおかしい市長そのもの〉などとツイートしている。


 取材現場の可視化によって一般の人に自らの矛盾を暴露されてしまったのは、朝日新聞記者も同じだ。

 4月2日の定例会見の場で朝日新聞の記者が、昨秋の市長選を巡り、大阪市の嘱託職員が平松邦夫前市長への支援を求める職員労組名義の職員リストを捏造し、維新の会がそのリストを議会で公表した問題を取り上げ、「市民感覚」で言うならばそのことを率直に謝るべきではないか、と質問した。


 その「市民感覚」という言葉に反応した橋下氏は、ではなぜ事実誤認した報道機関は全てにおいて謝罪しないのかと逆質問した。さらには光市母子殺害事件に関連した自らのテレビ発言問題に触れ、最高裁で違法性がないと判断されたのだから、「市民感覚」で言うならば、橋下氏が敗訴した一審判決後に「弁護士の資格を返上してはどうか」と社説に書いた朝日新聞は謝罪するべきではないか、などと記者に迫った。

 だが、朝日新聞の記者は橋下氏の質問にまともに答えることも有効な反論をすることもできず、「答えないのは逃げだ」と橋下氏に批判された。この時のやり取りも朝日新聞で報道されることはなかったが、大阪市のHPなどにアップされている映像で確認することができる。




◆匿名性に安住してきたメディアの無責任


 こうした「ダダ漏れ」スタイルがメディア側の“駄目さ加減”を白日の下に晒しているのは、橋下氏の記者会見に限った話ではない。

 例えば、近年で言えば、小沢一郎氏の記者会見が典型的だ。反小沢のメディアほど「政治とカネの問題についてどう考えているのか」などと抽象的な質問をすることが多く、小沢氏が具体的に答えざるを得ないような質問の仕方をしていない。「説明責任を果たしていない」と小沢氏を非難するが、自分たちに小沢氏の“痛い所”を引き出す質問力がないことは棚上げしている。これに限らず、自分の主張を述べているだけで、質問の形になっていないこともある。問題を追及するどころか、逆に隠蔽に手を貸すようなことすらある。例えば、去年3月、福島第一原発の事故が起こり、東京電力の記者会見において自由報道協会所属のフリージャーナリスト、木野龍逸氏、日隅一雄氏、筆者らが繰り返し海洋汚染の可能性について追及していた時、大手新聞の記者はそれを遮るかのように「お前たちの会見じゃない」と野次を飛ばしたのである。

 だが、こうした“駄目質問”や悪質な野次も、ネット上にアップされた映像で確認することができるようになった。


 従来、恣意的な編集にせよ、無知、無理解、不勉強にせよ、権力側との馴れ合いにせよ、メディアの欺瞞が表に出ることはなかった。記者クラブ制度が強固に機能していたからである。雑誌、ネット、外国メディア、フリージャーナリストといった異分子を記者会見の場から締め出し、記者クラブ所属の内輪だけで“情報カルテル”を結んでいたので、自分たちに都合の悪い事実は互いに隠蔽し合うことが可能だったのだ。つまり、取材現場のブラックボックス化は、記者クラブ制度と表裏一体のものだったのである。


 ところが、政権交代が起こった2009年の秋以降、記者会見のオープン化が徐々に進み、会見に参加し始めた非記者クラブのメディアやフリージャーナリストが、まずはツイッターなどを使って文字による事実上の生中継を、やがて映像の生中継とそのアーカイブ化を始めた。

 また、記者クラブ制度が強固だった時には、記者会見でどこのメディアの、何という記者が、どういう質問をしたかは、一般の人には全く見えなかった。だが、オープン化が進み、「ダダ漏れ」スタイルが定着するにつれ、記者がそうした匿名性に安住することは不可能になった。以前は、官庁のHPに掲載される会見録でもメディアの質問者の名前部分は「――」と表記されて匿名になっていたが、フリージャーナリストの岩上安身氏らの強い要請により、今では実名が表記されるようになっている。


 この変化が持つ意味は大きい。質問をする記者にも、質問力と、責任・覚悟が問われるようになったからだ。実は橋下氏はそのことを十分意識している。それを物語っているのが、ツイッターでの次のような発言だ。

〈「私が質問しているのだから私の質問に答えよ。私が答える必要はない。」こんな取材姿勢が通るはずがない〉〈記者会見や囲み取材の場に来て、議論する覚悟がないなら来るべきではない〉〈記者の認識に誤りがあったり、見解に合理性がなかったりすれば、当然僕から質すこともある〉……。

 記者クラブに所属してはいても、現場の記者は、実はこうした大きな変化に気付き、危機感を抱いていることが多い。気付いていない、あるいは気付いてはいてもその現実の変化を直視できないで抵抗しているのは、長年記者クラブ制度のもとで育ち、それを守って出世を果たしてきた幹部たちなのだ。


 手前味噌になるが、こうした「ダダ漏れ」スタイルの記者会見を半ばシステム慣習化したのは、筆者が代表を務める自由報道協会の主催する記者会見だ。


「ダダ漏れ」スタイルは橋下氏が始めたことでもなければ、橋下氏の専売特許でもない。長野県知事時代(00~06年)に「脱・記者クラブ」宣言によっていち早く記者会見を開放し、会見録や動画を県のHPにアップした田中康夫氏、同じ時期に全国でも珍しく毎週記者会見を行ない、テレビ中継もさせてきた石原慎太郎氏、国政で言えば岡田克也外相(当時)、亀井静香金融相(当時)、原口一博総務相(当時)ら何人もの先駆者がいる。そうした流れの上に立ち、今最も意識的、戦略的に「ダダ漏れ」を活用しているのが橋下氏なのである。


「ダダ漏れ」は諸刃の剣であり、権力側にも覚悟と責任を強いる。記者クラブだけを相手にしていた時代には、失言や勉強不足の発言をしても、馴れ合いで不問に付してもらえることもあり得たが、「ダダ漏れ」スタイルではそれはあり得ない。権力側にとって、「ダダ漏れ」はメディアの恣意的な編集から自分を守る武器になると同時に、いったん失言をすれば自分を厳しく攻撃する凶器になる。


 だが、権力側にもメディア側にも覚悟と責任を強いることは、馴れ合いを排除し、健全な緊張関係を生むという意味で民主主義にとって非常に有効である。世界の多くの国では、権力とメディアの間のこうした緊張関係は普通であり、記者クラブ制度のせいでそれが欠けていた日本が異常だったのである。橋下氏もツイッターでこう述べている。〈権力と記者のやり取りの中で真実が見えてくる。それが民主主義における議論の重要性だ〉。この問題提起に既存大手メディアがどう応えるかが問われている。

(SAPIO 2012年6月27日号掲載) 2012年7月5日(木)配信















この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 韓国政府表明の東シナ海大陸... | トップ | 【社会】「日本が強制連行、... »

マスコミ」カテゴリの最新記事