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ニッポンのゆる~い日常

放置された「昭和の不平等条約」

2013-05-03 08:50:03 | 正論より
5月3日付      産経新聞【正論】より


放置された「昭和の不平等条約」

「国民の憲法」考    評論家、拓殖大学大学院教授・遠藤浩一氏


http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130503/plc13050303100001-n1.htm



 ■吉田も当初は現行憲法に疑問


 幣原喜重郎内閣外相として、さらには首相(第1次内閣)として現行憲法の制定・施行作業に携わった吉田茂は、憲法草案ができるまでの過程について、「外国との条約締結の交渉と相似たものがあった」、むしろ「条約交渉の場合よりも一層“渉外的”ですらあった」と証言している。併せて、日本側が「消極的」「漸進主義的」であったのに対し、総司令部側は「積極的」「抜本的急進的」だった、とも(『回想十年』)。


 現行憲法の本質が端的に語られていると思う。


 被占領期、すなわち主権が停止した特殊な時期に、日本国憲法は勝者と敗者との渉外交渉によって成立した。「条約締結」の目的は勝者による完全かつ円滑なる敗者の支配にあり、そのためには「抜本的急進的」にわが国の精神と諸制度を解体する必要があった。

 いってみれば当時のわが国は「昭和の不平等条約」を呑(の)まされたわけである。不平等条約であればこそ、諸国民の公正と信義は信頼するけれども日本国及び日本国民は信頼に値しないと言わんばかりのいびつな思想が罷(まか)り通る。

 吉田は「新憲法た(な)のだるまも赤面し」との戯(ざ)れ句を残しているが、後に護憲派に転じる姿をみせた彼も、制定当初は恥ずかしい憲法だと思っていたらしい。

 幕末から明治維新にかけて欧米列強との間で取り交わされた不平等条約は「百弊千害日に月に滋蔓(じまん)」させる代物だった。明治の為政者たちは条約のすみやかな改正こそ「維新中興に随伴する重要問題」と考え、行動した(陸奥宗光『蹇蹇録(けんけんろく)』)。およそ40年をかけて改定にこぎつけたのだが、相手のあることだから、苦労は尋常ではなかった。

 昭和の不平等条約も「百弊千害日に月に滋蔓」しているにもかかわらずそして専ら日本人自身の決断で改定できるにもかかわらず、こちらは施行から66年になるというのに放置されたままである。






 ≪岸は改正目指して果たせず≫


 筋論からいえば、本来主権回復と時を措(お)かずに自主憲法制定に着手しなければならなかった。ところが、吉田は現行憲法を維持しつつ国際社会に復帰する道を選んだ。世論の反発を恐れたのではない。北朝鮮による韓国侵攻(朝鮮戦争)を目の当たりにすれば、さすがの日本人も、「諸国民」には信頼できそうな者とそうでない者があることに気付いた。世論は再軍備を支持し始めていた。

 他方、アメリカも日本は敵ではなく友たり得ると得心した。講和の予備交渉の過程で米国は日本に再軍備を求めたが、これはほんの4年前に自らが押しつけた憲法-すなわち不平等条約の改定をあちら側から求めてきたに等しい。

 これに対して吉田はあくまでも護憲を貫いた。少なくともそういうポーズをとった。そこで選択したのは、日米安保条約を締結して、数年前まで敵国だった米国に日本の安全保障を委ねるという奇策だった。ところが第1次安保条約には米国による日本防衛義務の不明記など重大かつ屈辱的な欠陥があった。

 全面講和論を退け、自由陣営の一員として主権を回復させたのは吉田茂の偉大な業績である。岸信介も「戦後最高、最大」の決断、と絶賛している(『岸信介回顧録』)。とはいえ、“不平等条約”を放置したままでは、独立を完成したことにはならない。そこに岸の問題意識があった。

 自由民主党結党を主導し、3代目(実質的には初代)の総理・総裁となった岸は、「真の独立」をめざした。それは結党時の自民党の党是でもあった。「親米」と「自立」を両立させようと、彼は決意した。

 具体的には、第1に経済成長策によって経済基盤を確かなものにする。第2に日米安全保障条約をより双務的なものに改定する(岸自身の表現では「日米関係の合理化」)。そして第3に憲法改正によって独立を完成する。





 ≪岸、吉田の孫に継がれた天命≫


 第1の課題は池田勇人通産相の献策を採用し、軌道に乗せた。第2についても反安保騒擾(そうじょう)の中、決死の覚悟で決着させた。しかし第3の憲法改正は実現せぬまま退陣を余儀なくされた。

 弟の佐藤栄作が首相だった頃まで、ひそかに政権復帰を考えていたと、岸は自ら述べている(『岸信介証言録』)。後任の池田内閣以降、憲法改正への意欲が急速に薄れていったことに危機感を抱いた彼は、自らの手で憲法改正方針を政府として打ち出したいと考えたのである。

 岸の政権復帰は実現しなかったが、孫の安倍晋三首相はいったん辞して、再び政権に就いた。「戦後レジームからの脱却」を実現するためである。憲法改正がそれに随伴する重要問題であることは論を俟(ま)たない。吉田の孫・麻生太郎財務相と手を携えて「昭和の不平等条約」改定を実現するのは、天命というべきであろう。(えんどう こういち)














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