私は周囲からは「元気」の塊のように見られていますが・・・実際そうですけど~ 、それでも体調や心の波(リズム)はあります。
皆そうだと思いますけど、そのスイッチの切り替えができることが大事かなと思ってます。
と言いながら、リズムが低調で「谷」に陥っている時は、マイナス感情などが湧いてくる時があるのも事実です。
そんな時に、先人の残した文章や言葉などを見たり、思いを感じとると、早く「谷」から脱出できることもあります。「谷」の期間をどれだけ短く、そしてその期間をうまく有効活用していくことで、「山」の時期には、さらなるワクワクが待っているのだと思います
それにしても昨今の報道では、加計学園であったり、森友学園であったり、教育に関る問題が世間を賑わせています。本当に悲しくなるというか、大人がもっと子どもたちに胸を張って仕事や行為を誇れるようにならなければいけないのだと感じます。
教育基本法 前文には、
「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。
我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
ここに、我々は、日本国憲法 の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。 」
と書かれています。
素晴らしい理念だと思います。これを行う教育機関や国が模範を示して子どもたちを教育していくことが必要であるのに、大人たちの意志、行動がそうなってないことは本当に悲しいことです(一部の)。
子どもは大人の姿を真似て=学んで育っていくわけです。
教育は「国家百年の計」とも言います。
この言葉は、古代中国、春秋時代(日本では縄文時代後期から弥生時代にかけての時期でしょうか)、斉という国の君主で、この時代の初期の覇者である桓公が覇権を達成した時に、名宰相であった管仲が贈った言葉で、
『一年の計は、穀を樹(う)えるに如かず、十年の計は、樹を樹えるに如かず、
終身の計は、人を樹えるに如かず』
という言葉からきています。
”一を植えて1を収穫できるのは穀物で、一を植えて10を収穫できるのは樹木であり、
一を植えて100を収穫できるのは人だけが行うことができる”
という意味だそうです。
要は「人材の発見と育成=教育」が国家を繁栄させるには大切だということです。
ここではあまり多くは書きませんが、現在も憲法審査会で日本国憲法について協議が行われていますが、良いものは残し、時代に適応していないところは変えていくべきだと私は思っています。そのための議論はどんどん行い、熟成させていけばいいと思っています。
話は逸れましたが・・・いつもですが・・・
先人の言葉は、今の私の心に足りない栄養素を補助して、元気を出してくれる力があるなと常々思います
花のように
砂漠に見いだす清らかな泉は、旅行く人の喜びであり、憩いであり、そして励ましである。
荒涼たる山野に、毅然として咲き誇る一輪の花は、また旅人へのこよなき慰めとなり
励ましとなる。
今の世の中が、荒野の如く荒れ果て枯れ果てているとは敢えて言わないが、
それでもこのむつかしい時代に、人びとの心は次第に落ち着きを失って、
索漠たる気配が感ぜられぬこともない。
おたがい手をつなぎ、助け助けられながら生きねばならぬこの世の中である。
人の心が砂漠のように荒れ果ててはたまらない。せめて我われだけでも、
清らかな泉のように、毅然たる一輪の花のように、強く正しく働いてゆこうではないか。
むつかしいことかもしれないが、自分の仕事に誇りを持ち、
自分の仕事に意義を感じるならば、
わが身の処し方もおのずからに見い出されてくるであろう。
どんな世の中になっても、あわてず、うろたえず、淡々として社会への奉仕を心がけてゆこう。
その姿自体が、人びとにとってすでに大きな励ましとなり、憩いとなるのである。
花のように。泉のように。そこにわれわれの喜びもある。
『道をひらく』 松下幸之助 著 PHP研究所
まさしくその通りです。松下幸之助さんの言葉はいつも腑に落ちます
そしてパワーになります
自分の仕事に誇りを持ち、意義を感じ、強く正しく清らかに、社会に貢献していこう
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
二葉鍼灸療院 田中良和