二葉鍼灸療院 院長のドタバタ活動日記

私が日頃行っている活動や、日々の鍼灸臨床で感じたことなどを綴っていきたいと思います。

2012年 終戦記念日にいろいろ考えてみた 3

2012年08月24日 | 社会

時間が経ちましたが、終戦記念日に考えたことの続きです。

天皇陛下とマッカーサーGHQ最高司令官のことについて少し書いて、この話題を終了したいと思います。

終戦後、連合国総司令部(GHQ)最高司令官 ダグラス・マッカーサーは、1945年8月30日に厚木飛行場に到着しました。その映像は時々メディアに出てきますね。

その後、マッカーサーは、9月27日に天皇陛下(昭和天皇)と初めての会見を行います。

マッカーサー回顧録によると、その時の模様を記しています。その中に…

  『私は、天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴え始めるのではないか
   という不安を感じた。連合国の一部、ことにソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者に含めろ
   という声がかなり強くあがっていた。現に、これらの国が提出した最初の戦犯リストには、
   天皇が筆頭に記されていたのだ。私は、そのような不公正な行動が、いかに悲劇的な結果
   を招くことになるかが、よく分かっていたので、そういった動きには強力に抵抗した』


  『ワシントンが英国の見解に傾きそうになった時には、私は、もしそんなことをすれば、少なくとも
   百万の将兵が必要になると警告した。天皇が戦争犯罪者として起訴され、おそらく絞首刑に
   処せられる事にでもなれば、日本に軍政をしかねばならなくなり、ゲリラ戦が始まる事は、
   まず間違いないと私は見ていた。結局、天皇はリストから外されたのだが、こういったいきさつ
   を、天皇は少しも知っていなかったのである』

そんな事情があるなか、天皇のお言葉は、

  『私は、国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に対する、
   全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるために
   おたずねした』

と仰られました。その言葉に対してマッカーサーが思ったことは、

  『私は、大いに感動にゆすぶられた。死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実
   に照らして、明らかに天皇に帰すべきでない責任を引き受けようとする。この勇気に満ちた
   態度は、私の骨の髄までも揺り動かした。私は、その瞬間、私の前にいる天皇が、個人の
   資格においても、日本の最上の紳士であることを感じとったのである』

と書いてあります。マッカーサー司令官は、会見に天皇陛下が来る時も、帰る時も、玄関には出ない予定でしたが、この35分にのぼる会見の中で何が変わったのか、天皇陛下がお帰りの際には、思わず玄関までお見送りしてしまい、慌てて引っ込んだことが目撃されている、と、『吉田 茂 回想十年』にあるそうです。

この会見を行うにあたり、GHQは天皇のこと、日本人の天皇に対する感情などを調べあげています。また、マッカーサーも早期に日本の統治を終了させたいと思っていたのでしょう。1948年には、大統領選挙に出馬しています(トルーマンが大統領に選出されましたが)。そのことを差し引いても、天皇陛下のお人柄に何かを感じたことは違いなく、後々の様々な決定に影響したと思います。

調べあげていると言えば、第二次世界大戦の発端、経緯は様々なものがあります。資源が少ない日本にとって、諸外国との貿易は産業発展、国民生活には不可欠なものでした。今も同じです。そんな中、海路が分断され、石油、鉄をはじめ生活必需品の輸出入を行うことができなくなりました。いわゆるABCD包囲網(アメリカ・イギリス・オランダ・中国による海上封鎖)です。
これも戦争に突入する大きな要因となりました。昭和天皇は、この戦争を「石油にはじまり石油に終わった戦争」とも話されていたようです。

しかし、しかし、この日本包囲網を含め、太平洋戦争に関る計画は、戦争が始まる以前に計画されていました。アメリカという国は、常に仮想敵国、または仮想敵を示して、それに対する戦略を練り、必要であればそれを実行してきた国です。今もそうです。

対日戦争計画として作成された計画は「オレンジ計画」と言われるものです。当時、あらゆる場合を想定し、仮想敵国ごとに色で現して計画つくっていました。その色が日本はオレンジだったということです。ちなみにアメリカはブルーです。太平洋戦争はおおむね、この計画に沿った形で遂行されました。
なんと、この計画は、1906年~14年の間に作成されました。ということは、太平洋戦争が始まるかなり以前から戦略方針が決定されていたということです。その後、随時、改訂されますが基本の骨子は変わることがありませんでした。そして、太平洋戦争が勃発するや、24時間ごとに戦艦の現況を反映して、次にどう動いたらいいか、ということが計画の中で随時更新されていたそうです。

アメリカのいくつかの仮想敵国の戦争計画の中で、日本に対するオレンジ計画は、最も卓越したものであったということです。アメリカのアジアへの植民地拡大の足がかりとして、戦略的に日本は重要であったということでしょう。また、このオレンジ計画が練られた頃、米国内では人種差別が凄まじく、奇しくも日本から数千人単位でアメリカへ移民として渡った、そんな状況もあったようです。

ようは、今のアメリカと同様に「どうしたら戦争を始めることができるか」ということを常に考えていたということになります。

アジアは確かに、日中戦争が起こっていましたが、アメリカは、さらに、それを上回る戦略と情報収集能力で、自国の利益をさらに強く、そして、そんな意味の大きな視点からアジアを注視し、そして、我がものにしようと計画を実行していたということになります。

第一次世界大戦後、戦争による反省から「国際連盟」が1919年、パリ講和会議により結成されます。その連盟規約に、日本が提案し、是非とも加えて欲しかったのが、”人種あるいは国籍の如何により法律上あるいは事実上なんら差別を設けざること”いわゆる「人種差別撤廃条項」でした。何度も反対されたので修正案を何度も提出したにも関わらず、欧米列強の反対にあいました。決議は多数決で決定するにも関らず、議長のアメリカ大統領 ウッドロー・ウィルソが「大事な決議は全会一致で…」ということに変えて、あえなく日本の提案は否決されました。
その後、様々な経緯があり、日本は国際連盟を脱退します。「こしゃくな日本」ってな感じで、対日戦争計画ができる下地はあったのでしょうね。
第二次世界大戦の日本の大きな目的の一つが人種差別撤廃と大東亜共栄圏の構築です。日本は敗戦国となりましたが、戦後、東南アジアやアフリカ各国の植民地が独立していきました。

現在、尖閣諸島や竹島の問題が世の中を賑わしています。ここで領土問題をとやかく言うことはしませんが、ここは日本だ、ここは韓国だ、ここは中国だ、と言っている間に、実はそれより高い立場(いや、裏の立場からと言ったほうがいいのか)から、国際戦略的にどこかの国が操っているのかもしれませんよ…と私は、そんな見方もしています。

ついでに言うと、戦後、日本は韓国にも中国にも、アジア各国に賠償金を払っています。そして何度も謝ってきています(本意、不本意は別にして)。韓国とは日韓基本条約により、取り決めを行い、当時の日本の国家予算の10分の1にあたる額の賠償金または、有償支金を払っています。世界の中で、敗戦国、また、植民地であった国に対して賠償金を払った例はありません。さらに、日本は朝鮮統治の中で整備したインフラなどの資産をすべて譲渡しています。
お金の問題ではない…などと言われるかもしれませんが、いつまで政治にこのような問題を持ちあげて、騒乱を生み出すのでしょうか。今回は毅然とした態度を貫き、問題解決をして頂きたいと思います。そのせいで経済や人的交流に支障が出ることは、お互いの国にとって得策ではないでしょう。お互い改めるところを改める。そんなことが大切だと思います。

あっと、話はそれましたが

日本は、戦うべくして戦い、残るべくして残っているのだと思います。戦争や紛争はあってはならないことです。しかし、起こってしまったことを教訓として、大切な部分はどこにあるのか、中心としなくてはいけない考え方はなんなのか、何のために(誰のために)、どのように決断しなければならないのか、そして、敵味方を越えて感じるものとは何なのか、そのようなことを、天皇陛下(昭和天皇)は、敵国の司令官であるマッカーサーの関係から、私たちに残して頂けたのではないかと思いますね。

日本をよりよい国にしていくために、世界の人々みなが平和で、愛の満ちた世界で過ごせるために、現在、物質的に余裕のある日本人がもっと考えていくことが大切なんでしょうね。

それを子孫へ伝えていくためには、「今」 自分が何を考え、思い、どう行動するかが、すべてなのだと思います。

あーーーーーー、また長くなった   最後まで読んで頂けた方、ありがとうございます

これで、2012年 終戦記念日に考えたことを終わりたいと思います。

 
  二葉鍼灸療院 田中良和

コメント (4)
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