人の身体や心を扱う「医術」は本当に深いです
鍼灸の医術は、奈良時代から伝わり、現代まで形は変わったにせよ受継がれてきています。
先達が様々な鍼灸の方法や法則、知識を残していただいてますが、最終的に感覚を身に付け、それを「医術」とするのは、それを学び実践する人であり、その人間性なのだと思います。
そういう意味でも、とくに検査機器もなく、診断機器もない鍼灸は経験の医術です。
様々な知識を学び、臨床に活かすことは重要ですが、その人を癒やしに導く、その深遠なる感覚を身に付けるのは、やはり、施術者自身の思いの強さと継続する努力かなと感じます。
失敗といってもピンからキリまでありますが、そこから学び、自身の成長に繋げて行くことは、その経験を最大限に活かすことであり、その経験に関わったすべての人や環境が「生」に変わる瞬間なのでしょう。
ここで、明治、大正、昭和の激動時代に、鍼灸業界を導いた先達の一人、柳谷 素霊先生の言葉から引用します。
鍼道の極意に曰う、鍼、人を殺さず、鍼立て、人を殺す、鍼立て、人を殺さず、無学、人を殺す、無学、人を殺さず、下手、人を殺す、下手、人を殺さず、上手、人を殺す、上手、人を殺さず、唯、満気の刺す故なり、と、以て鍼家の訓戒とすべきである。
鍼元死物である。之を活物たらしむるは術者である。術に習なければ、死物活用の方法なく、習に千差万別、種々なる場合を経て達すべきものである。習上手になりたとて慎みなく、みだりに術に慢すれば即ち誤る。過れば即ち害なり、害なれば鍼、人を殺す。
瘂門に五番鍼を深刺し、肩井にも同様深刺して心臓麻痺を起し、喘息に急激なる刺激を与えて喘息の発作を急発せしめ、遂に死に至らしめたる者あり。
鍼医深く省み、深く慎むべきである。(『医道の日本』昭和十四年六月号の巻頭言より)
『昭和鍼灸の歳月~経絡治療への道~』より抜粋
最後の「瘂門に・・・」からの文章は、素霊先生(あえて号で)の内弟子に起こった出来事のようです。
そのような事例はいくつかあったのだろうと思いますが、鍼灸は効果もある代わりに、患者さんの身体の状態と鍼の刺し方によっては危険なこともあるといことを念頭におき、自覚して学びを続けることを言われています。
いや、、、もっと深い意味があるのだろうと思いますが。
素霊先生に心服され、経絡治療の道を進み、今も先生の施術方法を受継ぐ人が多くある、小野 文恵(ono bunkei)先生にも、郷里での施術所で、死は免れましたが、これに似た経験があり、鍼をやめようかとも思った歴史があったとは・・・
先生は経絡治療の一つの方法を見いだした名治療者であったので、歴史を知ると立場こそ違えど、患者さんや素晴らしい鍼灸術のために頑張らないといかんと感じるしだいです。
鍼灸は、施術は深い・・・だから楽しくもある・・・でも難しい・・・だから情熱が湧く・・・でも失敗が多い・・・だから成長できる・・・の繰り返しで、・・・最後は患者さんの喜びに繋がる・・・のかなと、私もまだまだ精進いたします。
悩み多き青年より
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