私の師匠、東洋医学研究所®所長 黒野保三先生がご逝去されたことをきっかけに、私の原点に立ち返り、師匠とは何だろう!?ということを、ブログの中で振り返る旅に出ています。
さて、プロローグでは、「初めての出逢いは不思議な感覚」と書きました。(プロローグ)
高校時代、石川県で鍼灸治療でお世話になった川本力雄先生に紹介され、両親とともにご挨拶とともにお話を聞きに名古屋へ向かったのが昭和63年3月ですから、かれこれ34年ほど前でしょうか。
ここが「今」「刹那」に繋がる入り口の門でした。
私が修行した東洋医学研究所は3階建てのビルになっています。
1階が治療室と台所、2階が黒野先生が仕事などをされる日本間、洋間、仏間があります。3階は私たち弟子のスペースになるのですが、大広間で皆で寝たり、勉強したり、マッサージの揉む練習をしたり、時にマッサージの患者さんが訪れるスペースでもあります。
屋上は、洗濯や洗濯干しスペースと通称”鳩小屋”と言われる古い書類などを収めておく倉庫があります。
何やら以前、先生が鳩を飼っていたことがあり、その名残だとか。
さて、名古屋に到着し、緊張のうちに両親とともに2階の洋間に通されました。
まあ、今でこそ社会人として振る舞える私ですが、当時、私が身に付けていたのは星稜高校野球部で培った、礼儀と情熱と真剣さだけだったでしょうか。
社会のことなど何も分からない若造です。
実は、この時、師匠の黒野先生がどのような話をされたのかは、失礼を承知で、まったく覚えていないのです。
こりゃ、怒られてしまいますね・・・いや、以前、もしかしたら研究所を訪れた際に先生に話をしたかもしれません。
先生の話は相当真剣に集中してお聞きしていた覚えはあります。
そうからかもしれませんが、何か先生の背後に宇宙のような広い奥深い空間が広がっているのを感じたのです。
スピリチュアル系など、そのとき全く頭にさえありませんでしたので、何かがそこにあったのだと思います。
それを感じた瞬間、「ここで勉強しよう」「ここで修行させていただこう」と決めたわけです。
それが何だったのかいまでも分かりませんが、黒野先生が人生の中で培われ、自然と身を覆うようになった何かが、私には広い空間として見えたのかな~と感じております。
それは「師匠とは」を辿る一つのキーになるのかもしれません。
今のところ私には理解できない現象であり、師匠の精神や心、人間性を突き詰めて追求していくことで、今後の私の人生の中で理解するときが来ると信じて精進したいと思います
ほんとうに不思議な体験でした
それが実は、この道に入る門だったりして~と思ったりしてます。
金沢への帰り道、両親も「おまえが、ここでやりたいというなら意志にまかせるよ」と言ってくれたので即決で東洋医研究所®で修行させていただく決心をしました。
話はガラッと変わり、この初めての出逢いの時だったかどうかは忘れましたが、はじめて「スッポンラーメン」なるものをいただきました。
名古屋の研究所ではよく出前でとっていたのですが、修行時代よくお店まで出かけお世話になった『好来軒』というラーメン屋さんです。
スッポンから出汁をとるんですよね。
ラーメン屋の隣の部屋はスッポン料理を食べるスペースでした・・・確か
今はお店はないようですが、美味しいラーメンだったな~。
大将もいい人で、ほんとうにお世話になりました。
初めて食べた時は「え~、スッポンラーメン」とビックリしましたけど。
話は逸れましたが、その衝撃的な出来事から数週間、昭和63年3月末から東洋医学研究所® 黒野保三 先生のもとでの修行生活が始まるのでした。
ま~あ、そんな単なる合宿と違い、生活から何から何まで初めてづくしでキツかったな~という感覚は今でも残ってます。
星稜高校野球部の練習も厳しかったですが、それに輪をかけての厳しさがたくさん経験できました。
そんな経験をさせていただいたからこそ「今」このような立場で仕事ができるのだと感謝しかございません。
が、もう一度やれるかというと・・・そんな度胸はないかもしれません
第2話では、最初の修行新生活のとまどいや研修期間のことについて書いていきたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。