立夏も過ぎて、盛夏の前哨戦のような日差しの日も多くなってきました
皆様、気温差で体調が思わしくないなどはありませんか
睡眠時間など、少し気にして、早寝早起きを心がけると一日のスタートがスッキリしますぞ~
さて、第五話は、私の鍼灸の師匠、黒野保三先生の、さらに師匠についてのお話です。
鍼灸師の師匠の師匠って、そりゃ~鍼灸師でしょ?と思いますが、これが違うのです。
黒野先生は名古屋の盲学校出身です。生まれながらにして片目に障がい があり、義眼でした。
視覚障がい はありますが、ゴルフもされ、それもレッスンプロをつけ、さらに暇があればゴルフの練習をされる徹底さです。囲碁もアマチュアの5段、それをやりながら鍼灸治療室も、そして、名古屋市立大学の研究員として鍼灸の研究もやっておられた、スーパーマンみたい先生でした。
黒野先生は、盲学校を卒業される時に、鍼灸とあん摩マッサージ指圧の免許を取得されました。
その後は、相撲取りのような大きな身体をされたイナモト先生という方に、あん摩を教えていただいたそうです。
鍼灸は、全国に教えを受けに、ありとあらゆる治療方法を求めて有名な鍼灸師のもとへ勉強に行かれたそうです。様々な病院でマッサージをされたり手術の手伝いをされたりしながら、鍼灸について考えを深めていかれることになります。
先生の若い頃は見ていないので分かりませんが、私が弟子に入ってからでも、とことんやり抜き、考えを深め、さらに実践する実行力、一つの道を追い求めるエネルギーたるや凄まじい勢いがありました。
社会や経済、世の中の流れも表から裏まで、真実をみつめられていましたので鍼灸界の現代医療への貢献という危機には、いち早く気づかれ、このままではアカン!と、周りを巻き込み積極邸に行動に出られたのだと思います。
鍼灸学会等の話は、2話にまたがるくらい深いものになりますので、後日、気合いを入れて書きます。
鍼灸(医学)の師匠 高木 健太郎 先生
黒野先生はご縁があり、高木 健太郎 先生の鞄持ちされ医学について、そして、鍼灸医学がどう進んでいくことが国民のためになるのか、という大きな方向性について影響と言いますか、教えをいただくことになります。
高木先生は、名古屋大学名誉教授、名古屋市立大学名誉教授を歴任された先生です。証明には至りませんでしたが「圧反側発汗」など皮膚反応の研究をされ、鍼刺激にもご興味があり理解がありました。
黒野先生の鍼灸医学への心(人生も)を一言で表わすと「真実の探求」です。
高木先生から、なぜ鍼は効果があるのだ との一連の話、その経緯の中で、この摩訶不思議な鍼治療の効果を、基礎医学的に、実証医学的に証明していかなくてはいけないという熱い志を強いものにされたと、これは私が黒野先生からお聞きした覚えがあります。
黒野先生の弟子の皆様も次々と、名古屋市立大学や名古屋大学の研究員となられ、鍼刺激等に関わる基礎研究をされることになります。そのあたりの業績は東洋医学研究所®のHPをみていただくと詳しいです。
また、高木先生は、黒野先生が中心事物の一人となって、これからの鍼灸医学、鍼灸医療発展のために進めていた(社)全日本鍼灸学会設立(現、(公社)全日本鍼灸学会)に向けて尽力いただくことになります。
高木先生は、学会設立に携わられた晩年は参議院議員という立場でもありました。黒野先生が選挙戦に尽力されたことは言うまでもありません。
そして、高木先生は、(社)全日本鍼灸学会の初代会長に就任されます。
参議院議員在職中に病に倒れられ、お亡くなりになりますが、その後も黒野先生は高木先生の奥様やご家族の皆様とは、最後までお声がけや鍼治療で恩をお返しになるということを、自然に当たり前のように実践されていました。
物事を徹底して、情熱を傾けて、鍼灸医学の可能性を探究する姿勢、そのような精神や志、魂が高木先生を巻き込み、無から有を生じさせる実践力に繋げたのだと感じます。高木先生との出逢いがきっかけとなり、鍼研究に関しては、名古屋大学や名古屋市立大学の名だたる医師・研究者の皆様と共同で行われました。
そう言えば、愛知県がんセンター総長の先生とも親交があったことを覚えています。すべて黒野先生が高木先生との繋がりや絆を生涯大切に扱ったからだと私は思っています。
心の師匠 佐治 眞光 先生
黒野先生も、「も」というのは失礼な言葉かもしれませんが、若い頃から、自分の人生はこれで良いのか、このような方向や道を進んでいって良いものなのか悩まれ、山にこもったこともあるそうです。いくら考えても分からず釈然としない気持ちで戻ってきた時の話です。
どのようなご縁かは、ちょっと覚えていないのですが、その悩みを相談しに行かれたのが、愛知県一宮市にある曹洞宗 全久寺の住職、佐治 眞光 先生でした。
先生は住職に自分が抱えている釈然としない気持ちをお話したところ、「そんなことは私には分からない、あなたに分からないものが、私に分かるはずがない」と言われたそうです。
先生も血気盛んな若い時代のことでしたので、「なんだ、このクソ坊主」と怒りの気持ちで帰ってきたそうです。
少し時間が経過して、振り返られた時に、「佐治先生の言葉は正しかった」と真理のようなものを悟られたそうです。
以後、佐治先生と黒野先生は、佐治先生がお亡くなりになるまで事あるごとにお寺と東洋医学研究所を行き来されるようになります。佐治先生も囲碁をやられていたこともありましたけど。二葉清友会の研修の中でも、仏教のお話や心のお話の講義をいだける時間がありました。
黒野先生のすごい所は、お世話になった方々には、ここまでされるんだというほど気をつかわれ、最後まで、またご家族に至るまで気をまわされるということ。それを当たり前にこなしてしまう所は、私の心の中に強く残っています(2回同じことを言ってます 笑)。
佐治先生とは何度かお話したことはありますが、優しく静かにお話されますが、短い言葉の中に、グサッと心を見抜かれる言葉を発せられるところは印象に残っています。
処世術の師匠 角田 鋭彦さん
角田さんは、(株)丸榮(栄にあったデパートなどを運営)の初代専務です。
私はどのような経緯で、どのような教えを受けたかは定かではありませんが、合併して丸榮ができたのが1943年(昭和18年)ですから、戦前から戦後にかけて動乱期、日本の経済成長期で活躍された方ですからスゴイ方の教えを受けたのだと思います。
この方に、処世術の教えを受けたということが、東洋医学研究所の教育システムや経営システム、また、現在はなくなりましたが、名古屋の経済界の出資を受けて運営されていた東洋医学研究財団設立なども、もしかしたら影響があったのかもしれません(私見です)。
私は、経営者にあるまじき数学嫌い人間でありまして、黒野先生の運転手をしている時に、時々、経営や計算の質問をされるわけですが、これがなかなか上手く答えられなかった思い出が多々・・・あります💦😆
このようなことも、何か意図があって質問されていることでした。先生の先見の目や思考は、やはりこの数学的、金銭的観念の基礎がきっちりあるからなのだと感じました。
この点は、修業時代、あまり学ばなかったな~と後悔しております。反省しております。
上の写真は研究所の3階に飾ってある写真です。
黒野先生がお世話になった3名の師匠です。
先生は、お世話になったご恩は終生忘れることなく、最後まで尽くされるところは、自分の人生においても見習うべき部分です。
今の鍼灸マッサージ界では師弟関係ということは、なかなか築けない環境かもしれません。
師匠の一挙手一投足に集中し、一言の重みを熟慮し、師匠が何を求めているかを感じながら行動する。そんな中で、鍼灸治療や臨床に大事な人間関係、鍼灸医学の真実を探求するために必要な人間性や心の在り方を実践で学ぶこと、それが師弟関係かなと私は思っています。
「師匠」の捉え方は人それぞれでいいと思いますが、師匠から学ぶ技術とは、そこに流れる思想や心、信念や情熱、様々なものが一つになっての技術なのだと理解しています。だから患者さんに役立つ治療技術になるのだと感じるわけです。
感性が研ぎ澄まされていた師匠であっても、3名の師匠をはじめ多くの人に学びを受ける柔軟な姿勢、そして、鍼灸医学・医療の真実を探求するのだという理念と、それを突き動かす信念や情熱、忍耐、誠意、本当に多くのことを学ばせていただいたと感謝しかありません。
あとは自分の学んだことを、どう伝えていけるかですね。
大きな宿題を黒野先生からいただいております。
いつも長くなりますが、最後までお読みいただき、ありがとうございます