「舟唄」「雨の慕情」「愛の終着駅」などの名曲で知られ「演歌の女王」とも言われた、歌手の八代亜紀さんが、昨年12月30日に急速進行性間質性肺炎のため死去していたことを、所属事務所が公式サイトで発表しました。
デビュー当時から密やかなフアンの一人でもありましたが、改めて長年のご活躍とボランティア等々へのご尽力へ感謝を込めて、ご冥福をお祈り申し上げたいと思います。
昨年8月28日にブルーノート東京でバースデーライブを行い、いつもと変わらない歌声で観客を魅了し、つづく9月9日には埼玉県熊谷市での公演「日野皓正クインテット」にゲストとして登場していました。その3日後の9月12日に所属事務所を通じて膠原(こうげん)病を患っていることを公表し、年内の活動を休止することが発表されていました。
ボランティアに尽力していたことでも知られています。73年に「なみだ恋」がヒットしたことで「ヒットのお礼に恩返しがしたい」とボランティア活動をスタートされました。同年に少年院への慰問を始め、81年から女子刑務所の慰問公演を開始し、ペルーのアルベルト・フジモリ元大統領の両親が、八代さんと同じ熊本県出身という縁で、ペルーへの支援も行い、94年には学校(ヤシロアキ工業技術学校)を設立しました。
2011年の東日本大震災の後に被災地を訪れ、体育館で寒さに震える被災者の姿を見て数千枚の畳を届け、その心遣いに涙する被災者もいたと報道されています。熊本地震の後も被災地でコンサートの開催をし続けました。得意な絵については、個展の開催を呼び掛けられた時に交通遺児の助けになるようにチャリティー絵画展にするなど、いつも助けを必要としている人々の心に寄り添っていた印象があります。
私の現役の時代、先輩、同僚達は指揮者カラヤンが全盛の時代に青春時代をおくったこともあり、クラシックフアンが多く、演歌へのアレルギーがある方も多くいました。そんな中で八代亜紀さんのフアンを表明するのは、結構勇気のいる事でした。しかし、彼女の唄う心に沁みるような演歌には「日本で一番過酷」と言われた、コンピュータ・ソフトウェア開発業務の厳しさを忘れさせ、また、幾たびか癒される思いを味わいました。
演歌に相当する音楽は、南米やスペイン、イタリアなど多くの国々にも存在します。南米のアルゼンチンやウルグアイのタンゴ、スペインのフラメンコ、ポルトガルのファド、イタリアのカンツォーネという音楽が有名です。いずれも大地にしっかりと根を下ろし、生活者としての苦しみや喜び、さらには人々の愛や郷愁などの感情を抒情豊かに表現する歌でもあります。
このように、日本の演歌に相当する音楽は、それぞれの国や地域の歴史や文化を反映した音楽であり、演歌と同様に、それぞれの国の人々の心に響く音楽と考えます。
さらに、突き詰めて言うと人々の苦しみや、哀しみ、叫びに寄り添い、その人々の表現できない深い想いを汲み取り歌ったのが、演歌の本質ではないかと勝手に解釈しております。その意味では短歌にも通じるものもあると考えています。八代さんのコンサートには細君共々幾たびか伺いましたが、その席上でよく言われる「代弁者」と言う表現が、演歌そのものの本質を表していると感じたことがあります。
こんなことも含め、長い事八代亜紀さんのフアンでありましたが、細君も大病を患い大きな手術後のリハビリの中で、八代演歌に慰められ、勇気づけられた一人でもありました。
また、あまり知られていない八代亜紀さんのボランティアに保護猫活動があります。たまたま中学生の孫の一人のイラストが八代さんの目に留まり、昨年3月八代さんとコラボで絵本「ちーたんとあきちゃん」を出版すると言う幸運にも恵まれました。この出版はチャリティー事業として行われ、本の収益金が保護猫活動に役立てられていると伺っています。
(出版時、孫は未だ中学生であり、マスコミ等への開示は避けたいとの配慮もあり、イラスト担当は「ひまり 14才」との表示に留めました)
偉大な歌手でもあった八代亜紀さんですが、誰にでもフレンドリーに接し、子供達からも親しまれ、愛され「身近な友だち」を貫き通した歌手は、中々存在しないとの感慨があります。
改めて、一フアンとして心からのご冥福をお祈りしたいと思います。