我々人間は、生まれたその時から様々な環境で生まれてきました。当然思想や宗教も人それぞれです。あれはダメ、これはヨイと決めつけるのは道では、ありません。
色々な事を経験し、学び、自分なりに少しずつ悟り、自分の道を歩めることが確信であり覚神でもあります。ゆえに全ての宗教も思想や哲学も学問であり学ばなければ、普遍なる道に目覚めることもありません。自分の宗教の思想のみが正しく、他宗は邪教であると考えるのは、偏する心です。偏見を一たび持てば、心はそれに囚われ神人が持つ本性の天目が開くことも永遠にありません。
伊勢白山道では自分教と述べています。しかし伊勢白山道リーマン氏は兎角、宗教を霊的垢と称し、宗教はいずれ無くなるとも言われています。全ての有料先生を地獄に送るなどとも述べています。
人類発祥と同時に信仰が自然と発生し、中には、迷妄な邪悪な宗教が生まれ世が混乱しましたが、神は聖賢を世に降し真実の道を広めました。聖賢の道が宗教となり後世にも残っています。地球意識を知る者であれば地球神は全てを受け入れていることを知っています。これを垢と見えるのは偏りです。中庸の理こそが地球意識であるからです。
人にとってお金は大切です。自分を救い、そして人を救うのは、天の道です。ここに金銭が生じるのは人間側の都合であります。人を騙し金銭を取るのは、泥棒であり、因果の法則が働きます。有料先生と称される人と私は会ったことがありませんが、人を幸せにしたら、天国への道であり、依存させ不幸にするのであれば地獄へ行きます。お金は人間が造った便宜です。ここに神界の掟等はありません。人が人を地獄に送るのは傲慢です。人にそのような権限があるのでしょうか。
本来、伊勢白山道は感謝道の筈です。生かされてることに感謝する心が他に偏見があれば感謝道から離れてしまいます。
普遍なる道を歩めて初めて自分道となります。それは依存からの脱却です。親離れであり覚醒への道です。
「多く観 よく観 多く聞き よく聞き 多くかぎ よくかぎ 多く味わい よく味わい 多く触れ よく触れ 多く思い よく思い もって悟るよりほかに手はない。」出口日出麿
「目にみえぬ 神にむかひて はじざるは 人の心の まことなりけり。」
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伊勢白山道では自分教と述べています。しかし伊勢白山道リーマン氏は兎角、宗教を霊的垢と称し、宗教はいずれ無くなるとも言われています。全ての有料先生を地獄に送るなどとも述べています。
人類発祥と同時に信仰が自然と発生し、中には、迷妄な邪悪な宗教が生まれ世が混乱しましたが、神は聖賢を世に降し真実の道を広めました。聖賢の道が宗教となり後世にも残っています。地球意識を知る者であれば地球神は全てを受け入れていることを知っています。これを垢と見えるのは偏りです。中庸の理こそが地球意識であるからです。
人にとってお金は大切です。自分を救い、そして人を救うのは、天の道です。ここに金銭が生じるのは人間側の都合であります。人を騙し金銭を取るのは、泥棒であり、因果の法則が働きます。有料先生と称される人と私は会ったことがありませんが、人を幸せにしたら、天国への道であり、依存させ不幸にするのであれば地獄へ行きます。お金は人間が造った便宜です。ここに神界の掟等はありません。人が人を地獄に送るのは傲慢です。人にそのような権限があるのでしょうか。
本来、伊勢白山道は感謝道の筈です。生かされてることに感謝する心が他に偏見があれば感謝道から離れてしまいます。
普遍なる道を歩めて初めて自分道となります。それは依存からの脱却です。親離れであり覚醒への道です。
「多く観 よく観 多く聞き よく聞き 多くかぎ よくかぎ 多く味わい よく味わい 多く触れ よく触れ 多く思い よく思い もって悟るよりほかに手はない。」出口日出麿
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