玄徳道

道を語るブログです。

自分道

2012-05-20 19:38:05 | 人倫
我々人間は、生まれたその時から様々な環境で生まれてきました。当然思想や宗教も人それぞれです。あれはダメ、これはヨイと決めつけるのは道では、ありません。
色々な事を経験し、学び、自分なりに少しずつ悟り、自分の道を歩めることが確信であり覚神でもあります。ゆえに全ての宗教も思想や哲学も学問であり学ばなければ、普遍なる道に目覚めることもありません。自分の宗教の思想のみが正しく、他宗は邪教であると考えるのは、偏する心です。偏見を一たび持てば、心はそれに囚われ神人が持つ本性の天目が開くことも永遠にありません。

伊勢白山道では自分教と述べています。しかし伊勢白山道リーマン氏は兎角、宗教を霊的垢と称し、宗教はいずれ無くなるとも言われています。全ての有料先生を地獄に送るなどとも述べています。
人類発祥と同時に信仰が自然と発生し、中には、迷妄な邪悪な宗教が生まれ世が混乱しましたが、神は聖賢を世に降し真実の道を広めました。聖賢の道が宗教となり後世にも残っています。地球意識を知る者であれば地球神は全てを受け入れていることを知っています。これを垢と見えるのは偏りです。中庸の理こそが地球意識であるからです。
人にとってお金は大切です。自分を救い、そして人を救うのは、天の道です。ここに金銭が生じるのは人間側の都合であります。人を騙し金銭を取るのは、泥棒であり、因果の法則が働きます。有料先生と称される人と私は会ったことがありませんが、人を幸せにしたら、天国への道であり、依存させ不幸にするのであれば地獄へ行きます。お金は人間が造った便宜です。ここに神界の掟等はありません。人が人を地獄に送るのは傲慢です。人にそのような権限があるのでしょうか。
本来、伊勢白山道は感謝道の筈です。生かされてることに感謝する心が他に偏見があれば感謝道から離れてしまいます。

普遍なる道を歩めて初めて自分道となります。それは依存からの脱却です。親離れであり覚醒への道です。

「多く観 よく観 多く聞き よく聞き 多くかぎ よくかぎ 多く味わい よく味わい 多く触れ よく触れ 多く思い よく思い もって悟るよりほかに手はない。」出口日出麿

「目にみえぬ 神にむかひて はじざるは 人の心の まことなりけり。」

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神気、養生の道

2012-05-19 23:16:35 | 天道
我々、人間には内なる神が居られます。根源神から派生した生命は、人のもっとも尊ぶものです。そして、生命にとって貴重なものは神気です。その神を存し、気を養うには道を修め、慎んで道に合することです。

ちなみに、ここで言う神気とは、誰にでも内在しているものです。この世界に至る所に充満しています。霊能者さんが指定した神域、聖域にしか神気が無いとか、教祖様のみが神気を出されることを神様より許されていると称されるのは、眉唾です。

死後の成道には心と体の健康が必要なようです。死後、あの世に行きつく際、病気であれば、それも付随して霊体にも影響があるようです。何故なら、人の霊的生命の七つの門、チャクラは、人の臓器等と密接に関係があるからです。

世間一般の人は、真我と出会うことも会いたいと思うこともなく、自己の前にある人我、欲望に夢中になります。
欲望は、極めることは出来ません。しかもそれを追い求めることで限りある生命が失われている事に気付きません。貪り怒り、愚痴、愛欲、得失憂恐によりほとんどの人が過度の消耗損傷により本来の寿命を損なっています。
疾病の因が長い間、かくれ潜み、内在する神の気を損なっているのに依然として自覚できないのです。

養生の道は、未だに病まない以前に治療する。すでに乱れているのを治めるのではなくて、乱れない以前に治めるのです。

先天坐の道は、養生の真義を簡潔に総括しています。坐は、心を安定にし、安定を得れば静寂となります。欲念は徐々に減少し、最後には無欲となります。各器官は、健全に維持され、先天の無形の炁霊は、活発になり充実し、有形無形ともに後天より先天に返り、先天の気は後天において生成され本性が成就されます。本性に還りその性を練れば霊を孕み神化するのです。

「神は人より遠からず、人が神を欲すれば神が至る、但し神に不同あり、念によって分かれる。念善ならば神の至るところは吉。念悪なれば神の至るところも凶。」

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セブンセンシズへの道

2012-05-17 04:55:03 | 坐道
アニメで聖闘士星矢Ωが始まりました。聖闘士星矢、懐かしいです。
私は、中年のオヤジですが、いまだにヒーローものが好きです。ただテレビを見るぐらいですが。息子が幼稚園を卒園と同時に、仮面ライダー等のヒーローものに興味をしめさなくなりました。お父さんは、悲しかったです。

天地、宇宙は無心にして陰陽の両義が相交わり、天地を生成してます。天地の生成は自然の法則であり、全ての生命に自然の道の働きがあります。
人は、後天世界に生まれ落ちてから六根六塵が相縁となりまして、心は、肉体(欲望)により使役されています。人の本性(内在神)は情の為に引きずられ、煩悩により他人を恨みます。それを妨げようとする心は、恐怖をまぬがれません。
妄想に入り込めば、茫然自失し、障害(魔)や迷いや惑いに囚われれば錯乱傾倒してしまいます。
全ては、自分の中の欲望が苦しみを深くして道を誤ります。

ちなみに六根とは、眼・耳・鼻・舌・身・意です。眼は視の根、耳は聴の根、鼻は臭の根、舌は味の根、身は触の根、意は念慮の根です。人は、六根があり、その能動的な働きを「六識」と申します。
そして六塵とは、眼で見て色塵となり、耳で聞いて声塵となり、鼻で臭って香塵となり、舌で舐めて味塵となり、身に染まって触塵となり、意に執着してして法塵となります。
この六塵が人の真性を汚染し、その為に煩悩が生まれます。本来清浄な六根でさえ、六塵は乱し穢れさせ、心がくらまされるのです。

坐の道は、ただ道に随い虚心但懐にして虚空のような心を持ちます。これにより六根は浄化され、本性は回光し真性へと還り六塵の魔塵を化するのです。
人は、自分の大切で好きな音楽、食べ物、色事等を探し求めることをされますが、自分の大切な本心(内在神)が放失されていても探し求めることをしない人が多い様です。この歩むべき道を捨ててしまい、誰も顧みない本心を求めようとしない事はとても悲しいことです。

人は小天地でもあり、小宇宙でもあります。坐や道により六根六塵を越えれば、世の汚濁も弭化、化刧、出来るのです。
六感意識を超えた超意識にたどり着く事ができれば、それは奇蹟であり永遠不滅の根源への帰還なのです。

「少年、少女よ小宇宙を燃やせ。そしてセブンセンシズ(セブンセンス)のくらいまで高めろ。」

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内省神への道

2012-05-16 21:32:32 | 天道
反省は、猿にでも出来ると申しますが内在神を宿す人間はなかなか難しいようです。
人は、他人を簡単に批判するのは得意です。しかし自分自身を点検し常に省みるのは不得意なようです。

例えば、職場等で人をとがめても自分自身をとがめることもなく、自分自身を大目に見てすぐに許しますが他人の場合は、絶対に責めて許さない上司や先輩などがいますよね。
どう考えても理不尽なのですが、そのような愚鈍なる人は部下や後輩を責めることにかけては、賢明となり知恵が廻ります。

そして宗教の教主、ブログの先生たちも本来、聡明であるのに自分自身を責めることに対しては、多くの方が愚鈍となるようです。
神の道でお金を頂いてはいけないと言いつつお金が入るシステムを造る教主や宗教を造らないと言いつつ宗教団体を創設する教主等、自分の都合のよい様にする教主は多数います。

いつでも自分が正しいと思い、他人を批判し独りよがりとなればそれが習性となって道から外れます。自分自身に一時の過失があってもそれに目をつぶり許せば、一時の過失が万事となり誤りがさらなる誤りとなり増えて行きます。
一念の誤りを制することが出来なければ邪悪はこれにより目覚め、反省することがなければ遂には、道を歩むことも出来なくなります。

内省することがなければ潜在している罪の意識が胸中をかき乱し、思考を混乱させ、霊台(心を定める土台)をくらまし、内在神を迫害します。そして人間としての幸福をも剥奪されるのです。

人生の最高たる智慧は、自分自身の病根弱点を熟知することを尊びます。故に己の道を修めるところの真の功夫は自分自身を省みて点検し内に省みてやましくないようにすることです。

内を省みる働きは、内なる神に還り見る(出会う)働きともなるのです。

「山中の賊を滅することは易く、心中の賊を滅することは難しい。」
老祖訓。「人は誰か過ちのない者がいようか、その過ちを隠せば、その過ちは真の過ちとなり、その過ちを悔いるがゆえにそれは過ちとならない。悔いると隠すの区分はほんのわずかの間に起こる。」

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神人合一の道

2012-05-14 22:49:55 | 天道
「神は、万物普遍の霊にして、人は天地経綸の司宰者なり。神人合一して茲に無限の権威と実力を発揮す。」
さて、何を以って神人合一と言うのでしょうか。神霊能力を以って、叡智を以って、人格を以って、カリスマなのでしょうか。
伊勢白山道リーマン氏は、この言葉をいわれた出口王仁三郎さんを天狗扱いをされています。しかし、どのような人にも普遍の神が在ります。人を動物霊や、龍、天狗等に観える霊能力者に神人合一の道へは遠いようです。愛たる神と合一される方は、第一に愛の神の目、天目が開かれています。ここに霊能の世界は、存在しません。霊能とは、人の想念や幽界を観る世界です。自己の想念、霊眼に偏する世界に居れば、真実は皆目、観えないでしょう。神の目、慈眼は、人を神宿る人と観えるのが真実です。

老祖は、尋仁(王仁三郎氏)をこのように述べています。「誠に衆生の光明にして濁界の導師なり。」「尋仁の天性は、生まれながらに受けたる所は、人と同じ木の実。その誠なるを因って能くその道を成じ、その信ずるに因る故に能くその心を成ぜり。これ僅かに日本一国の明哲なるのみならず、亦(また)東亜大陸の先覚者なり。その悟る所を以ってすれば、実に以って世界人群物類の平安を奠(さだ)むるに足るなり。」

出口王仁三郎さんはの膨大な著作、芸術をみても天才の様です。しかし、老祖はその天性は、他の人と変わることが無いと言われています。出口王仁三郎さんの真心、誠心が道を開いたと言われています。

神人合一とは、神様が降ろした秘法でもありません。内在する神を感じるのでもありません。霊能力、神通力も関係ありません。
道を明らかにし、道を修め、道を行い、道をひろく宣べる中で、困っている人がいれば、手助けをしたり、悩みを聞いたり、慈悲の行動の中で心地よくなった時が即ち、道と合一した時で、心が道となり道も心となるのです。この一刻の心地よさを保てば、道を味わい、楽しみは、その中にあり、快適にして、心地よい事はこれに過ぎるものはないのです。

「道が明らかであれば、理に通じ、道を修めれば、心が練られ、道を行えば、能く行い、道をひろく宣べれば神人の天職となる。」

「わが体は心に合し、心は気に合し、気は神に合し、神は無に合す。その介然の有、唯然の音、あるときは遠くは八荒の外にあり、近くは眉睫の内にあり、来りて我を干す者は我必ず知る。乃ちこれ我が七孔四支の覚る所なるか、心腹六臓の知る所なるかを知らず、それ自ら知るのみ。」

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