教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

ミル自由論の命題

2006年04月11日 23時07分13秒 | 教育研究メモ
 今日は午前中起きることができました。一時間の運動後、登校。21日の論文構想を少し直した後、読書。テキストは、今日もJ・S・ミル(塩尻公明・木村健康訳)『自由論』(岩波文庫、1971年・原著1859年)です。夕方、一時三味線の練習へ。先日ハジキすぎで皮がずれた左薬指が痛い(練習が不足しすぎてヤワになっているから(苦笑))。同級生と晩飯後、再び戻ってミルを読書。
 今日はまとめる気になれないので、引用のみ(^^;)。手抜きですみません。m(_ _)m
 私が興味深いと思って、今日読んだ中で気づいたところだけ抜き出しました。時代的な文脈やミルの意図するところは十分説明できていないと思うので、わかったふりにはご注意を。文脈等は実際読んでくださいな(定価700円ですし)。

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 「論争の行われない場合には、意見の根拠が忘却されるだけではなく、また実にしばしば意見そのものの意味が忘却される、というのが事実である。意見を伝えるための言葉は、全く思想を表示しなくなるか、或いは、最初その言葉が伝えようとしていた思想の一小部分を表示するに過ぎなくなる。(中略)或いはまた、意味の一部が辛うじて記憶されるとしても、単にその外殻と外皮とが記憶されるに止まり、純美なる精髄は忘却されてしまう。」(81頁)
 「戦場に一人の敵も存在しなくなるや否や、教える者も学ぶ者も共にその持ち場で眠りはじめる」(87~88頁)

 「人間は謝りのないものではないということ、人間の真理は大部分は半真理であるに過ぎないということ、相反対する意見を十二分に最も自由に比較した結果として出て来たものでない限り、意見の一致は望ましいものではなく、また、人間が現在よりもはるかに、真理のすべての側面を認識しうるようになるまでは、意見の相違は害悪ではなくてむしろ為めになることであるということ、-およそこれらの諸命題は、人間の意見に対して適用しうるのと同様に人間の行為の様式に対しても適用しうる原則である。」(114~115頁)

 「或る人の欲望と感情とが、他の人のそれよりも一層強力であり多方面であるということは、彼が人間性の素材をより多くもっていること、したがって恐らくはより多くの悪をなしうるであろうが、また、より多くの善をなしうることも確実である、ということ」(121頁)
 「欲望と衝動とにおける個性の発展を助長してはならないと考える人があるならば、彼は、社会は強力な性情を少しも必要とはしていないということを、-社会は豊富な性格の持ち主を数多く包含することによって少しもそれだけよくはならないのであるということを、-また、勢力の一般的平均水準の高いことは望ましくないのであるということを、主張しなくてはならないはずである。」(122頁)

 「人間が高貴で美しい観照の対象となるのは、彼自身のうちにある個性的なものをすべて磨りへらして画一的なものにしてしまうことによってではなくて、他人の権利と利益とによって課された限界の範囲内で、個性的なものを開発し喚起することによるのである。(中略)各人の個性の成長するに比例して、彼は彼自身にとって一層価値あるものとなり、したがってまた他人にとっても一層価値あるものとなりうるのである。」(127頁)
コメント
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