教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

自由論の読書、勉強会参加を行って

2006年04月13日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 今日は午前中から。今日は、勉強会もあるし、明日の私立特別研究会の準備(21日の発表レジュメを発表)もしないといけないので、時間がありません。したがって、運動はナシ。早めに登校したわりには、たいしたことはできませんでしたが… とりあえず、午前中21日用のレジュメに取りかかり、論文構成を完成させました。
  
 13時から、西洋教育史研究室古典勉強会(名称は発表レジュメによる)でした。テキストはJ・S・ミル『自由論』(岩波文庫版)です。私は無理を言って加えてもらったので、隅で静かに黙っておこうと思っていたのですが、生来のでしゃばりがたたって(苦笑)おもしろみがない上に、議論の流れからもズレてしまった発言・質問をいくつかしてしまいました。しかも私の場合、自分が軽蔑されても議論や話題のきっかけになればいいという考え方に基づき、軽率かつ理解の浅い、誤解を含んだ発言でも口にしますので、参加者の皆さんに内心どう思われたのか心配です(^_^;)。これが私なんですと自己満足のため開き直りはするものの、当然反省もしてます。とくに今日に至っては、やっぱりまだ自分は文字そのものしか読めていないなあ、と反省しきりです。すでに身に付けている知識・経験が足りず、また、身に付けている知識・経験も他の知識・経験と関連づけができていない。そのため、文脈を読む力が圧倒的に足りないのでしょう。
 上記のことを痛感したのは、勉強会の中での議論・問いかけによって次のようなことに気づいたからです。ミルの『自由論』は、次の一文から始まります。

「この論文の主題は、哲学的必然という謝った名前を冠せられている学説に実に不幸にも対立させられているところの、いわゆる意志の自由ではなくて、市民的、または社会的自由である。換言すれば、社会が個人に対して正当に行使し得る権力の本質と諸限界とである。」(本文9頁)

ミルの『自由論』は、その主題を「(哲学的問題としての)意志の自由ではなくて、市民的、または社会的自由」とし、「社会が個人に対して正当に行使し得る権力の本質と諸限界」に限定して論理が展開されています(本文9頁参照)。つまりミルの自由論は、個人が必然的に有すべき自由を語るというより、個人に対する社会の権力とその限界を語ることによって市民的・社会的自由について論じるもの、と読めます。ただ、この理解は文字面を理解したにすぎません。「市民的、または社会的自由」とは何でしょうか。ミルによって意図的に論述対象から排除された、「(哲学的必然としての)意志の自由」とは何なのでしょうか。また、市民的・社会的自由と対置させて、論理から排除できる「自由」なのでしょうか。そもそも、ミルが使った「市民」「社会」「個人」とは、何を意味するのでしょうか。これらの言葉(概念)は、ミル自身が意味を込めて使ったか、もしくはミルの同時代に生きた人々が一般的に理解していた意味で使われているはずです。言葉の意味は、使われていた背景によって変化します。現代の日本人が理解しているような意味で、使われているとは限らないのです。
 ミルの『自由論』は、これらの点に注意しながら読んでいかなくてはなりません。最初の一文を読んで、「ああ、わかったわかった」と早合点して読んでいくと、ミルが当時『自由論』を書くことで何を言おうとしていたかを理解することはできず、読者の自分勝手なご都合主義の理解にとどまります。私は、この『自由論』を読むにあたって、ミルの言わんとした「自由」とは何だろうか、というところには注意していました。ですが、「社会」や「個人」などの意味は、文中に例示されている場合には注意しましたが、最初の一文を理解する上では、私自身が勝手に理解している意味で解釈していました。本日の勉強会中のH先生の指摘・教えのおかげで、このことに明確に気づくことができました。本当にありがとうございました。m(_ _)m
 ある本(とくに古典)を自分勝手に読むことも自由ですし、私はある程度意味のある行為だと思います(本ブログ2006.4.10記事参照)。しかし、それではその本を本当に読んでいるとはいえない、ということに気づいた上で、読まないといけないのです。自分でも、本ブログ2006.4.11の記事に少しそれらしいことを書いているように、わかってはいたつもりでしたが… それを自覚せずに、軽率な考えを今日の勉強会で口に出してしまったということは、やっぱり本当にはわかっていなかったのだなあと思います。反省反省の一日でした。
  
 なお、現在翌日午前1時半。今まで21日の発表レジュメを作っていました。ようやく博士論文の構想の部分が完成。なかなか満足な出来です。あとは、各論のみ。実は、主任指導教員Y先生に要求されているものは二種類、すなわち博士論文の構想と博士論文の一部としての各論一つ。後者の分は、先月投稿した分でいいと思っていますが、何しろ2万4千字もある論文なので、要旨にしないといけないなあ、と思っております。何にしろ、明日の特別研究会に出すのはまあいいや(論文構想も8頁(註を入れると12頁)あるし)。
コメント
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