現在において「教育学としての教育史」の研究において、重要な思考法・研究法の一つに近代教育(近代学校)批判がある。ここでいう「批判」とは、単なる「非難」や「否定」ではなく、物事の価値や誤り、不十分な点等を検討してよりよい知見を目指す議論のことを指す。
近代批判は、近代を制度や思想等において徹底しようとする近代主義を批判してその問題を乗り越えようとする思考法である。それは20世紀前半には始まっているが、現代の学問・思想においても重要な思考法になっている。教育学においても、近代教育批判は、特にポストモダンの影響を受けた20世紀末以降、ますます重要な方法になった。近代教育は、現在の学校教育や教師の在り方などのよって立つ原理の一つであり、明治以降150年にわたって試行錯誤のうえ思想化・制度化されてきた。しかし、現在、「学校教育は行き詰まっている」などの言説や、「学校でなくても学べる」、「日本でなくても学べる」、「AIによって代替可能なので教師は不要なのではないか」などの言説によって、近代教育の問題が多方面から指摘され、新しい教育が模索されるようになって久しい。現代の教育学が取り組むべき重要な使命の一つとして、近代教育批判が上がってくる所以である。極論を言えば、教育史は過去の教育を研究すれば成立してしまう。しかし、教育学としての教育史は、近代教育批判に取り組むことが求められる。
近代教育批判に限らず、近代批判は現在の学問研究一般に重要である。歴史研究を通した近代批判の特徴は、過去そのものを問うことを通して批判を進めるところにある。過去(歴史)の問い方には大きく2つある。第1に、過去と別の過去が本当に連続・進歩しているのか、その連続性を問う。第2に、過去同士が本当に断絶しているのかその断絶性を問う。いずれの問い方についても、その真偽を史料を通して確かめるのが歴史研究である。
そのとき、近代をどのように捉えるかによって、とるべき研究法は変わってくる。近代は現在に対して過去であり伝統である。ここで、近代を「継承すべきもの」と捉えるか、「克服すべきもの」と捉えるかによって、歴史研究の姿勢が全く違ってくるだけでなく、現在または未来の捉え方までも変わってくる。近代を「継承すべきもの」と捉えるならば、現在・未来は「過去からの進歩・徹底、または過去の延長」と捉えることになる。近代を「克服すべきもの」と捉えるならば、現在は「克服すべき過去の課題を背負うもの」または「過去の課題は現在に至るまでに解決済の、過去から断絶されたもの」と捉えられ、特に未来は「過去から断絶されたもの」と捉えられやすい。どちらが正しい視点・姿勢かという問いに唯一の答えはないが、近代をどうとらえ、どう考えるかで現在・未来の見方・考え方は根本的に変わってくることは確かである。
近代と現在の関係を考えるとき、「近代=現代」または「近代≒現代」と捉える視点がある。「近代」という日本語は、その後に「現代」という新たな時代がやってくるように私たちに認識させがちであるが、英語ではどちらも「modern」である(しかも「近世」は「early modern」だからさらにややこしい)。この視点をとると、先述の歴史的見方・考え方の一つであった、現在の目で歴史を見て、過去と現在のかかわりを考える見方・考え方をとりやすい。過去と現在の共通点や連続性を探究するには便利である。しかし、現在の見方・考え方だけで歴史を解釈しようとすると、解釈を間違うことがある。この問題は、しばしば「現在主義」と呼ばれる、近代批判・歴史研究一般に共通する大問題である。自分の親や年の離れたきょうだいですら、自分とは考え方が違うなと感じた経験は誰にでもあるだろう。それと同じように、過去の見方・考え方や習慣、文化は、現在のものと似ている印象を受ける場合もあるが、まったく同じものではない。過去に存在したそれらは、少なからず時間を経て変遷している。基本的には、過去と現在とは、少なからず異質なものだと心がけなければならない。近代批判や歴史研究を行うのは現在を生きる我々だから、現在の見方・考え方を考察にまったく持ち込まないことは不可能である。同時代に生きている我々が、異なる他者と対話するですら容易なことではない。過去に生きる他者と対話することも同様である。歴史研究には、自分や自分の所属するコミュニティのもつ現在主義を相対化しながら、異質な過去を捉え、他者として尊重しながら対話しようとする研究法が必要である。この研究法を身に付けるには、特殊な訓練が必要である。
近代を問うことは、近代史はもちろん、近世史・中世史・古代史でも可能である。近世以前の歴史研究は、その時代を明確に研究することで近代との比較材料を確かにすることができる(もちろん近代批判のためではない近世以前の歴史研究もある)。とはいえ、近代史研究はそのまま近代批判につながる点で、ほかの時代の研究と異なる立場にある。近代史研究は、近代内部(同時代)で、ある過去と別の過去の間に生じた変遷を分析し、歴史の画期等を発見して、近代そのものを考察していく。その作業を通して、近代とは何か、どのような課題が見いだせるかについて考察することができる。近世史はそのまま近代とは異なる他者として研究する場合も、early modernの研究として捉える場合も、近代批判につながげることができる。
歴史研究は近代を問うために、国家や地域、制度、思想、文化、習慣等を時系列や因果関係などとして関連付けながら、その近代性を考察・解釈していく。比較・関連づけるべき事実は、同時代の別の国や地域・人物等の事実であることもあれば、同じ国や地域・人物等のさらなる過去の事実であることもある。例えば、1900年代と1910年代の思想を関連付けることで、その連続性や近代性を問うことができる。また、単体の事実同士だけでなく、複数の過去や出来事・集団・人物の間に起こった移動や交流、影響、受容、借用、移転等のかかわりを対象にすることもできる。単に20世紀前半の日本とアメリカの教育制度を比較するだけでなく、アメリカのA氏の教育学説が日本の学者B氏の学説に受容され、B氏が政府の審議会でその学説に基づいて発言し、政策に取り入れられたことを明らかにすることで、A氏の影響を特定したり、B氏の学説の独自性を研究したりして、日本における教育の近代化の在り方を明らかにすることができるかもしれない。
現在の教育学にとって重要な教育学的思考の一つに近代教育批判がある。教育学としての教育史も、近代教育批判に取り組むことが期待される。そのためには、研究者自身が近代をどのように捉えようとしているか自覚し、その視点に適した思考ができる研究法をとらなければならない。また、現在と過去の連続性を捉えるにしても、断絶性を捉えるにしても、現在主義に陥ることなく、過去という異質な他者を尊重しながら、対話していく必要がある。また、過去の同時代の出来事を単に比較したり、関連付けたりするだけでなく、それぞれの関わり方に着目にすることで過去をより精緻に分析することが可能になる。近代教育の特質を正確に考察するには、過去を精緻に分析する教育史研究が必要である。
主要参考文献
E.H.カー(清水幾太郎訳)『歴史とは何か』岩波新書、1962年。
リンダ・S・レヴィスティック、キース・C・バートン(松澤剛・武内流加・吉田新一郎訳)『歴史をする―生徒をいかす教え方・学び方とその評価』新評論、2021年。
Johannes Westberg & Franziska Primus, "Rethinking the history of education: considerations for a new social history of education", Paedagogica Historica, Vol. 59, (2023), 1-18. https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/00309230.2022.2161321
近代批判は、近代を制度や思想等において徹底しようとする近代主義を批判してその問題を乗り越えようとする思考法である。それは20世紀前半には始まっているが、現代の学問・思想においても重要な思考法になっている。教育学においても、近代教育批判は、特にポストモダンの影響を受けた20世紀末以降、ますます重要な方法になった。近代教育は、現在の学校教育や教師の在り方などのよって立つ原理の一つであり、明治以降150年にわたって試行錯誤のうえ思想化・制度化されてきた。しかし、現在、「学校教育は行き詰まっている」などの言説や、「学校でなくても学べる」、「日本でなくても学べる」、「AIによって代替可能なので教師は不要なのではないか」などの言説によって、近代教育の問題が多方面から指摘され、新しい教育が模索されるようになって久しい。現代の教育学が取り組むべき重要な使命の一つとして、近代教育批判が上がってくる所以である。極論を言えば、教育史は過去の教育を研究すれば成立してしまう。しかし、教育学としての教育史は、近代教育批判に取り組むことが求められる。
近代教育批判に限らず、近代批判は現在の学問研究一般に重要である。歴史研究を通した近代批判の特徴は、過去そのものを問うことを通して批判を進めるところにある。過去(歴史)の問い方には大きく2つある。第1に、過去と別の過去が本当に連続・進歩しているのか、その連続性を問う。第2に、過去同士が本当に断絶しているのかその断絶性を問う。いずれの問い方についても、その真偽を史料を通して確かめるのが歴史研究である。
そのとき、近代をどのように捉えるかによって、とるべき研究法は変わってくる。近代は現在に対して過去であり伝統である。ここで、近代を「継承すべきもの」と捉えるか、「克服すべきもの」と捉えるかによって、歴史研究の姿勢が全く違ってくるだけでなく、現在または未来の捉え方までも変わってくる。近代を「継承すべきもの」と捉えるならば、現在・未来は「過去からの進歩・徹底、または過去の延長」と捉えることになる。近代を「克服すべきもの」と捉えるならば、現在は「克服すべき過去の課題を背負うもの」または「過去の課題は現在に至るまでに解決済の、過去から断絶されたもの」と捉えられ、特に未来は「過去から断絶されたもの」と捉えられやすい。どちらが正しい視点・姿勢かという問いに唯一の答えはないが、近代をどうとらえ、どう考えるかで現在・未来の見方・考え方は根本的に変わってくることは確かである。
近代と現在の関係を考えるとき、「近代=現代」または「近代≒現代」と捉える視点がある。「近代」という日本語は、その後に「現代」という新たな時代がやってくるように私たちに認識させがちであるが、英語ではどちらも「modern」である(しかも「近世」は「early modern」だからさらにややこしい)。この視点をとると、先述の歴史的見方・考え方の一つであった、現在の目で歴史を見て、過去と現在のかかわりを考える見方・考え方をとりやすい。過去と現在の共通点や連続性を探究するには便利である。しかし、現在の見方・考え方だけで歴史を解釈しようとすると、解釈を間違うことがある。この問題は、しばしば「現在主義」と呼ばれる、近代批判・歴史研究一般に共通する大問題である。自分の親や年の離れたきょうだいですら、自分とは考え方が違うなと感じた経験は誰にでもあるだろう。それと同じように、過去の見方・考え方や習慣、文化は、現在のものと似ている印象を受ける場合もあるが、まったく同じものではない。過去に存在したそれらは、少なからず時間を経て変遷している。基本的には、過去と現在とは、少なからず異質なものだと心がけなければならない。近代批判や歴史研究を行うのは現在を生きる我々だから、現在の見方・考え方を考察にまったく持ち込まないことは不可能である。同時代に生きている我々が、異なる他者と対話するですら容易なことではない。過去に生きる他者と対話することも同様である。歴史研究には、自分や自分の所属するコミュニティのもつ現在主義を相対化しながら、異質な過去を捉え、他者として尊重しながら対話しようとする研究法が必要である。この研究法を身に付けるには、特殊な訓練が必要である。
近代を問うことは、近代史はもちろん、近世史・中世史・古代史でも可能である。近世以前の歴史研究は、その時代を明確に研究することで近代との比較材料を確かにすることができる(もちろん近代批判のためではない近世以前の歴史研究もある)。とはいえ、近代史研究はそのまま近代批判につながる点で、ほかの時代の研究と異なる立場にある。近代史研究は、近代内部(同時代)で、ある過去と別の過去の間に生じた変遷を分析し、歴史の画期等を発見して、近代そのものを考察していく。その作業を通して、近代とは何か、どのような課題が見いだせるかについて考察することができる。近世史はそのまま近代とは異なる他者として研究する場合も、early modernの研究として捉える場合も、近代批判につながげることができる。
歴史研究は近代を問うために、国家や地域、制度、思想、文化、習慣等を時系列や因果関係などとして関連付けながら、その近代性を考察・解釈していく。比較・関連づけるべき事実は、同時代の別の国や地域・人物等の事実であることもあれば、同じ国や地域・人物等のさらなる過去の事実であることもある。例えば、1900年代と1910年代の思想を関連付けることで、その連続性や近代性を問うことができる。また、単体の事実同士だけでなく、複数の過去や出来事・集団・人物の間に起こった移動や交流、影響、受容、借用、移転等のかかわりを対象にすることもできる。単に20世紀前半の日本とアメリカの教育制度を比較するだけでなく、アメリカのA氏の教育学説が日本の学者B氏の学説に受容され、B氏が政府の審議会でその学説に基づいて発言し、政策に取り入れられたことを明らかにすることで、A氏の影響を特定したり、B氏の学説の独自性を研究したりして、日本における教育の近代化の在り方を明らかにすることができるかもしれない。
現在の教育学にとって重要な教育学的思考の一つに近代教育批判がある。教育学としての教育史も、近代教育批判に取り組むことが期待される。そのためには、研究者自身が近代をどのように捉えようとしているか自覚し、その視点に適した思考ができる研究法をとらなければならない。また、現在と過去の連続性を捉えるにしても、断絶性を捉えるにしても、現在主義に陥ることなく、過去という異質な他者を尊重しながら、対話していく必要がある。また、過去の同時代の出来事を単に比較したり、関連付けたりするだけでなく、それぞれの関わり方に着目にすることで過去をより精緻に分析することが可能になる。近代教育の特質を正確に考察するには、過去を精緻に分析する教育史研究が必要である。
主要参考文献
E.H.カー(清水幾太郎訳)『歴史とは何か』岩波新書、1962年。
リンダ・S・レヴィスティック、キース・C・バートン(松澤剛・武内流加・吉田新一郎訳)『歴史をする―生徒をいかす教え方・学び方とその評価』新評論、2021年。
Johannes Westberg & Franziska Primus, "Rethinking the history of education: considerations for a new social history of education", Paedagogica Historica, Vol. 59, (2023), 1-18. https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/00309230.2022.2161321
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