教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

誠を尽くす

2005年07月06日 20時09分22秒 | Weblog
 あまりにあまりだったので、先の記事は削除しました。

 私の家族は、毎年大晦日の23時ごろになると、檀那寺へ百八つの鐘を突きにいく習慣がある。そこでかならず引くのが、鐘の横に置かれたおみくじ。寺でおみくじというのもおかしな感じだが、これがまた当たるのである。その一年を過ごすうちにあまりに当たっていることを実感し、今では心のよりどころになってしまっている(笑)。
 平成17年度もすでに半分すぎてしまったが、やはりこのおみくじの中身にはうならされっぱなしである。このみくじは、なにやら御利益がありそうな感じで漢詩と古語で書かれている。私の今年度のみくじにかかれていた漢詩は以下の通り。

 第二番 小吉
  月被浮雲翳(つきはくもにかくざれ)
  立事自昏迷(りうじおのづからくらし)
  幸乞陰合祐(こいねがわくばいんごうのさいわい)
  何慮不開眉(ひらかんまゆをひらからざること)

  <解説文>
  月あれど くもにかくれて 光が見えぬぞということなり
  立って見てもつい見えねば おのづから心もくらく まようなり
  まことをつくし 時節をまたば さいはいのたすけ あり
  よろこび の まゆをひらくべしとなり おもいわづらう事なし

 月(ツキ、か?)は雲に隠れ、立って見ても先は見えない。
 しかし誠をつくして時節を待てば、幸いのたすけがあり、喜びに眉が開く。(←あやしい訳)
 思い煩うことはない、努力せよ。という意味のようである。
 とにかく、はじめは心の思うままに何事も成し遂げ難いけれども、励んで時節を待てば、後にしあわせがある、ということだそうだ。みくじの最後には、「すべてこのみくじはは初悪しく後よきかたちなり」として結ばれる。
 初めは良くない。これはまさに当たっている。今年度初めの六ヶ月、ろくなことはなかった。論文が認められないということはもちろん、それ以外でも。みくじの通りであれば、この後、好転するはず。しかし、これには「努力すれば」という限定があることには注意しなくてはならない。幸いの後の不幸、不幸の後の幸い。努力なき結果など存在しない。今の私にできることは努力のみ。
 誠を尽くし、努力すれば、道は開ける。今は愚直にこれを信じるのみ。
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