教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

教師に教育のための時間を

2010年12月05日 19時59分54秒 | 教育研究メモ

 以下、悪文・愚痴です。以前、高校の非常勤をしていた頃にも、似たようなことを言ったことがあります(2007.6.25記事)。
 こんな記事を書いているくらいなら仕事しろ、という人は、今日(執筆日)は日曜日であることに気づいてほしい。


 来週の仕事量がヤバい。その次の週も。明日から徹夜覚悟。とにかく来週を乗り切りたい。

 今持っている仕事は、どの仕事も知的・創造的作業である。どの仕事も本来ならじっくり時間をつかって作るはずのものである。が、こんなに集中していたら十分なことができるだろうか。前から少しずつ準備してきたが(というより、事前準備がなければ絶対乗り切れない)、直近に準備しないと意味がないものも多いので、まだまだやることは山積みである。いざ目の前にすると、「うっ…これは乗り切ることができるのか…?」と、正直、腰が引ける。
 さらに、これから先(来年度のことも含めて)、仕事量も減るどころか、増えることが確定している。しかも、増えるのが当然、のような空気。

 これは私の職場に限ったことではなく、今の日本の職場全体に言えることである。この空気が当たり前のようになっていることには、疑問を感じざるを得ない。短大に限らず、どの職場も苦しいわけだが、だからといって「これでいいのか…?」と思う。

 教師の仕事は知的・創造的作業であり、効率よくこなしていくことが、よい仕事につながるわけではない(もちろんそれも大事だが)。時間をかけて、教材研究にとりくみ、必要な事務作業を行い、じっくりと学生と話し合って、授業展開を構成・工夫していくことがよい仕事につながる。それなのに、今の仕事ですら手一杯な状況下で新しく増えた事務作業に割くためや、教職員不足によって増加する担当授業数のために、教材研究や授業づくり、学生の個別指導の時間を削って一つ一つに十分な時間をかけられないのは、本末転倒ではないか。
 学術研究の時間をもっと、とは言わないでおく。給料を上げろ、とも言わない。しかし、教育の時間をもっと、とは言わせてもらいたい。
 以前、学生の中に、「先生は授業時間以外、いつも研究室で遊んでるんだと思っていました」という者がいた。「そんなわけあるかぃ」と言い返しておいた。しかし、世間の認識は所詮こんなもんである。この学生は悪くない。教師の仕事は、授業中以外、外からは見えにくいから。よほど興味を持って観察しないと、どんな仕事をいつしているのかわからない。時間が空いているからといって、手が空いているように思うのは、教師の仕事の実態に合った発想ではない。「がんばれば(時間を切り詰めれば)できる」というのは、仕事の質を問わない言葉である。教師によりよい教育を行わせたいなら、時間を与えるべきである。

 「教師に教育のための時間を」
 たぶん、日本中の教師(保育者も含めよう)の多くはこんな気持ちだと思う。
 しかし、何とかしてほしいとは思うが、目の前の状況は変わらないからやるしかない。「最小のコストで最大の効果を」という言葉が、全職種をとりまくうちはこの状況は絶対に変わらない(この言葉そのものはもっともだと思うが、上述の通り、教職に全面的に適用すべきではないと思うのである)。
 我々は今を生きているから、今を切り抜けるしかない。今を切り抜けるには、すべきことを整理し、計画的に進めていくしかない。
 苦しいけれど、教育の仕事が好きだから、何とかやっていきたい。

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