音の四季~風の彩

作曲家、しの笛・龍笛奏者、ジャズピアニスト、城山如水の徒然日記。
オカリナ、フルートの事も・・・・

政府の教育行政 の 誤り

2014年10月22日 | 裏読み 政治・経済


安倍さん率いる現政府の教育行政は奇妙だ。

教育学を多少学んでいる者からすると、政府には優秀な教育学者が居ないんじゃなかろうか、と心配になる面が多い。

「生きる力を育む教育」というスローガンは納得できる。

しかし、その為に「道徳教育」「愛国心教育」を重視するという観点には明らかに「時代錯誤」を感じる。

「道徳教育」というと一見きこえは良い。

しかし「特定の道徳観」「偏った道徳観」・・・これは「多様な価値観」の対極になるもので「特定の価値観」「偏った価値観」と言い換えてもよいもので、これを教育者から「与えられた」時、生徒は思考力を失う場合がある。

より必要なものとは「与えられた道徳観」そのものを「自身で問い考える」能力なのだ。

「与えられた道徳観、価値観」を鵜呑みにしない能力なのだ。

「愛国心」などは鵜呑みにすると特に危険で「お国の為」「天皇陛下の為」「神国日本の為」・・・などなどいつか来た「国家神道軍国主義ファシズム」というモンスターに容易に飲み込まれてしまう恐れが十分にある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%…E%E9%81%93
その兆しは日増しに顕著になりつつある。

政府閣僚の靖国神社参拝がまさにそうだ。

靖国参拝閣僚の言葉には詭弁がある。
「国策に殉じて尊い命を捧げた英霊に尊崇の念を捧げる」というお決まりの文句だ。

日本を太平洋戦争という無謀な戦争に暴走させたのは「国家神道軍国主義ファシズム」であった。

「国家神道」は「現人神天皇」「軍国主義ファシズム」「教育勅語」により形作られた「政教一致」の産物であり「国教」であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%…E%E9%81%93
その中心シンボルが「靖国神社」であった。

日本国民を悲惨な太平洋戦域に送り込んだのは「国家神道」であった。

これを理解すると靖国参拝閣僚の「詭弁」がよく見えてくると思う。

もちろん現在の日本国憲法では「思想・信条・信仰の自由」は基本的人権として保障されているので、「靖国参拝」は自由である。

ただ政府の閣僚という「公人」の立場にいる人達が「靖国参拝」を行うのは「思想・信条、信教の自由」をはき違えているだろうと思う。

さらに「神道」ではないキリスト教、仏教、その他の宗教の人達が「靖国神社からの分祀」を望んでいるにもかかわらず、いっこうに分祀しないのも「思想信条・信教の自由」に抵触するものだろうと思われる。

これは「偏った道徳観、宗教観」に固執している分かりやすい例だと思われる。

「道徳教育」「愛国心教育」というものが国家から「与えられた」時、しばしば「偏狭な価値観」「偏狭な民族主義」とむすびついて暴走を始める。

その好例が太平洋戦争における「国家神道軍国主義ファシズム」の熱狂的暴走であった。

では「道徳教育」「愛国心教育」よりもさらに重要なものは何かというと「自ら既成の価値観に対して疑いを持ち吟味する能力」である。

言い換えれば「自ら考える能力」である。

つまり「哲学」する能力を養うことである。

しかし残念ながら日本には「哲学」という最重要課題を実践できる土壌が教育現場にないように思われる。

だから政府の教育行政でさえ「道徳教育」「愛国心教育」を重視する、というような「的外れ」の政策しか出てこない。

これはいかに日本の教育界が貧困であるかをさらけ出すものであろうと思う。

欧米、ヨーロッパなどでは小学校から「哲学」の授業がある。

日本に「哲学」の授業が無いのは、教師自身が「哲学」をしないから教育現場で「哲学」の授業を実践できる教師がいないからという事情もある。

いかに日本の教育現場が貧困であるかということだろうと思う。

「生きる力を育む教育」に不可欠なのは「自ら考える~哲学教育」が不可欠なのだ。

安倍さんと、その政府は「道徳教育」「愛国心教育」の重要性を引っ張り出すが、安倍さん一派のように閣僚でありながら「靖国参拝」を繰り返す政府の「道徳教育」「愛国心教育」などは日本国の行く末を誤らせるものでしかないと感じる。

その行く末とは「国家神道軍国主義ファシズム」の復活ではないかと思っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%…E%E9%81%93


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