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高度に開発がすすんだ現代社会で、人間として充実した生活を営むためには何が必要だろうか。
それが「人間教育」であるとするならば、それは人間の尊厳の自覚に基づいて、人間性の育成に主眼をおいて行われる教育であると思われる。
具体的にいうと、科学的知性、自律性の強さ、情報処理能力、葛藤解決能力、平和への心情、自己教育力、多元的な価値観、世界的視野、さらに宇宙的視野を自己の内面に形成することを援助する教育といえる。
その場合、当然のこととして学校は人権の感覚を根底にしていることがまず求められる。
つまり学校は管理社会化ではなく、人間化されていることが根底となる。
こうした人間化は、人権感覚を根底に人格的接触を密にし規則による機械的な統制、拘束をできるだけ少なくし、相互理解により協力・融和を多くすることであり、一人ひとりが自己実現の機会をもてる状態の実現である、といえる。
これは学校教育の場における人間教育と、学校の人間化の必要性と重要性の話であるが。
ひるがえって、大人の社会に求められているものの根底も、同じものではないかと考えられる。
現代の社会の様相、大人の社会の様相を見渡したとき、大人の社会にこそ必要なのが、人間教育・生涯学習であり「社会の人間化」であろうと考えられる。
社会は人間尊厳の無視、人権感覚のマヒなど、不条理に満ちている。
しかし将来の社会を変えるのは教育であることは間違いない。
それは人間教育であり、学校を人間化する教師の存在だろう。
しかし、その教師像は従来の教育制度を繰り返す教師像ではないだろう。
教師は過酷な職業であるといえる。しかし社会の根幹を造り、将来の社会を決定付ける尊厳なる存在であるともいえる。
人間の尊厳と人権感覚を根底とする、社会の人間化は、学校の人間化から始まらなければならないだろう。
それには当然ながら教師像の人間化がまず求められるのだろう。