アメリカの劇作家アーサー・ミラー(1915―2005)が「セールスマンの死」を書いたのは1949年のことですが、日本では1970年代の初めになってもこの作品の内容はまだいくらか遠い国の出来事だったような気がします。
主人公のウィリー・ローマンはセールスマンで一旗揚げようと猛烈に働きますが、まあ、家のローンに縛られながら平凡な日々を送るという一般的なサラリーマンの水準から抜けられないまま、六十代に入ります。
やがて経営者が代わるとともに、にべもなくリストラされてしまうのです。
人に好かれ、まじめに働けば成功するはずだと、そんなふうにウィリーはまだアメリカン・ドリームの哲学を信じていて、その夢を息子にも吹き込みますが、息子もまた過重な親の期待に苦しんで、父に反抗しながら自分も崩れていくのです。
会社でも家庭でも行き場を失ったウィリーは、二万ドルの保険金を家族に遺すことをせめてもの自分の最後の仕事として、自殺を遂げてしまいます。
これがブロードウェーで上演されてピュリッツアー賞に輝いたとき、日本ではまだ戦後のドサクサが続いていて、この作品に関心を持ったのは一部の専門家だけでした。
しかしさすがに60年代にもなりますと、日本でもすでに民藝が滝沢修の好演で上演を重ねていたこともあったりして、アメリカ同様に現代劇の古典の地位を築きます。
とはいえ、給与所得者の失職・自殺・保険金というこの絶望の三項構造は、高度に資本主義が進展したアメリカにこそ現れる、いぜんとして特殊な悲劇に見えていました。
日本ではまだ演劇上の、いわば観念的な出来事にとどまっていたのです。
しかし2007年のこの夏、大阪の演劇プロデュース集団ぐるっぺ・あうんがこれをあらためて上演したのを見て、それがじつにいま、圧倒的な現実味で迫ってくるのを感じました。
ここ数年、日本の自殺者は毎年3万人を超えるのです。
関西では鉄道が「人身事故」の名で毎日のように乱れていますが、これはむろん飛び込み自殺によるものです。
ウィリーの死はいまやまったくわたしたちの死なのです。
ただウィリーの孤独な死とわたしたちの時代の死とが違うのは、今日のわたしたちには統計を介して死の構造がはっきりととらえられるということです。
鉄道線路を死屍累々(ししるいるい)の光景に化している今日の死神の徘徊(はいかい)は、近年の政権の弱肉強食の政策と見事な並行関係を示すのです。
政治が死神を招きよせ、国民をそのえじきにささげているのです。
ウィリーもまた実は殺されていたということを、わたしたちは今ありありと知るのです。
☆
「セールスマンの死」は2007年7月12日に吹田市のメイシアターで上演されました。
なおこの舞台の評を本ブログの姉妹編である「Splitterecho Web版」のCahier(カイエ)に掲載しています。関心をお持ちのかたはどうぞ。Web版は http://www16.ocn.ne.jp/~kobecat/
主人公のウィリー・ローマンはセールスマンで一旗揚げようと猛烈に働きますが、まあ、家のローンに縛られながら平凡な日々を送るという一般的なサラリーマンの水準から抜けられないまま、六十代に入ります。
やがて経営者が代わるとともに、にべもなくリストラされてしまうのです。
人に好かれ、まじめに働けば成功するはずだと、そんなふうにウィリーはまだアメリカン・ドリームの哲学を信じていて、その夢を息子にも吹き込みますが、息子もまた過重な親の期待に苦しんで、父に反抗しながら自分も崩れていくのです。
会社でも家庭でも行き場を失ったウィリーは、二万ドルの保険金を家族に遺すことをせめてもの自分の最後の仕事として、自殺を遂げてしまいます。
これがブロードウェーで上演されてピュリッツアー賞に輝いたとき、日本ではまだ戦後のドサクサが続いていて、この作品に関心を持ったのは一部の専門家だけでした。
しかしさすがに60年代にもなりますと、日本でもすでに民藝が滝沢修の好演で上演を重ねていたこともあったりして、アメリカ同様に現代劇の古典の地位を築きます。
とはいえ、給与所得者の失職・自殺・保険金というこの絶望の三項構造は、高度に資本主義が進展したアメリカにこそ現れる、いぜんとして特殊な悲劇に見えていました。
日本ではまだ演劇上の、いわば観念的な出来事にとどまっていたのです。
しかし2007年のこの夏、大阪の演劇プロデュース集団ぐるっぺ・あうんがこれをあらためて上演したのを見て、それがじつにいま、圧倒的な現実味で迫ってくるのを感じました。
ここ数年、日本の自殺者は毎年3万人を超えるのです。
関西では鉄道が「人身事故」の名で毎日のように乱れていますが、これはむろん飛び込み自殺によるものです。
ウィリーの死はいまやまったくわたしたちの死なのです。
ただウィリーの孤独な死とわたしたちの時代の死とが違うのは、今日のわたしたちには統計を介して死の構造がはっきりととらえられるということです。
鉄道線路を死屍累々(ししるいるい)の光景に化している今日の死神の徘徊(はいかい)は、近年の政権の弱肉強食の政策と見事な並行関係を示すのです。
政治が死神を招きよせ、国民をそのえじきにささげているのです。
ウィリーもまた実は殺されていたということを、わたしたちは今ありありと知るのです。
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「セールスマンの死」は2007年7月12日に吹田市のメイシアターで上演されました。
なおこの舞台の評を本ブログの姉妹編である「Splitterecho Web版」のCahier(カイエ)に掲載しています。関心をお持ちのかたはどうぞ。Web版は http://www16.ocn.ne.jp/~kobecat/