西宮混声合唱団の第52回定期演奏会が阪神西宮駅前の市民会館アミティホールで開かれました(9月30日)。
1953年にまず今津小学校の講堂を練習場につつましくスタートして、でももう半世紀を超える歴史です。
地域社会を一緒に支える隣人たちによって構成され、けれど音楽への誠実な取り組みと熱心な努力によって、見事な水準を保っている合唱団です。
市民の中に深く根を下ろしていることを如実に示して、1200人収容のホールがほとんど満員になりました。
もちろん1983年いらい指揮者を務める八木宣好(のぶよし)さんの高い志と強い指導力があってこその今日のすばらしい力量だと思います。
内外にわたって幅広いレパートリーを持っていて、今回のプログラムもハイドンのミサ曲から日本のわらべうた、そしてディズニーの映画音楽まで、おとなもこどもも一緒に楽しめる内容になりました。
とりわけ輝きを放ったのは、合唱団オリジナルの新曲が晴れて初演されたことです。
千秋次郎さん(豊中市在住)に委嘱されて作られた混声合唱組曲「良寛詩抄~富貴はわが願いにあらず」です。
江戸時代の禅僧・良寛さんの漢詩に曲を付けたものですが、まず胸をうたれたのは、良寛さんの悠然たる精神がくっきりと音楽の表面に浮き上がってきたことです。
遠い遠い宇宙の地平線へ広がっていくような大きな心、それが曲の中に透けて見えたと言ったらいいかなあ、とも思います。
日本の合唱団がヨーロッパの曲を演奏するとき、技術はもう十分だと思うのですが、いぜん微妙な違和感を覚えるのは、歌の精神的な方向性がまだどうも定まりきらないような、そういう感じがあるからではないでしょうか。
ヨーロッパの合唱団は、この神が遠ざかる時代にあってもなおキリスト教文明が体の奥にしみこんでいるからでしょう、団員個々人になんの指図をしなくてももう分かりきったこととして声があの聖堂のクーポラ(ドーム)の方、すなわち天上の方へ方向づけられ、そうして大きな調和と統一が高い次元で達成されるように思えます。
一方、わたしたち日本人の発声は自然の状態ではどうやら水平の方向に進みます。
西方浄土が西の地平線の向こうにあるという仏教のビジョンもあるいは影響しているかもしれませんが、それよりもむしろ今日わたしたちが歌というものを考えるとき、それを人から人への世俗のメッセージとみなす、この水平の構造が大きな役割を演じているのではないでしょうか。
むろんこれはどちらが優れているかとか劣っているとかとかいう問題ではありません。
そういう文化の形を持っていて、そこにはそれぞれの形にかなった表現があるだろうということです。
その点で西宮混声合唱団の今回の「良寛詩抄」は、水平方向への奥行きがまさしく広大無辺に広がっていく、そのような無限の空間感覚がありました。
わたしたちの胸にスーッと入ってきたのです。
スーッとごく自然に入ってきて、わたしたちの心を誘って、世俗を超え、魂の清浄な世界へ連れ出していったのです。
そして水平方向へ無限に広がっていくということは、それだけ垂直方向にも高く、深くなっていったということです。
宇宙に壁を立てない良寛さんの生き方が現代にあざやかなリアリティーを持ちながら曲の中に甦ったと、そう言ってもいいでしょう。
合唱団に大きな財産が生まれました。
なににも代えがたい魂の財産です。
さて西宮混声合唱団は来年の定期演奏会を兵庫県立芸術文化センターの大ホールで開く予定で、千秋次郎さんは今度は江戸・元禄時代の歌謡集「松の葉」に作曲して、「江戸の恋唄」を発表する計画です。
大きな楽しみができました。
同合唱団はhttp://www9.plala.or.jp/nishikon/
☆
なお「良寛詩抄」の論評をこのブログの姉妹編「批評紙Splitterecho(シュプリッターエコー)Web版」に掲載しています。ご訪問ください。
Web版はhttp://www16.ocn.ne.jp/~kobecat/
1953年にまず今津小学校の講堂を練習場につつましくスタートして、でももう半世紀を超える歴史です。
地域社会を一緒に支える隣人たちによって構成され、けれど音楽への誠実な取り組みと熱心な努力によって、見事な水準を保っている合唱団です。
市民の中に深く根を下ろしていることを如実に示して、1200人収容のホールがほとんど満員になりました。
もちろん1983年いらい指揮者を務める八木宣好(のぶよし)さんの高い志と強い指導力があってこその今日のすばらしい力量だと思います。
内外にわたって幅広いレパートリーを持っていて、今回のプログラムもハイドンのミサ曲から日本のわらべうた、そしてディズニーの映画音楽まで、おとなもこどもも一緒に楽しめる内容になりました。
とりわけ輝きを放ったのは、合唱団オリジナルの新曲が晴れて初演されたことです。
千秋次郎さん(豊中市在住)に委嘱されて作られた混声合唱組曲「良寛詩抄~富貴はわが願いにあらず」です。
江戸時代の禅僧・良寛さんの漢詩に曲を付けたものですが、まず胸をうたれたのは、良寛さんの悠然たる精神がくっきりと音楽の表面に浮き上がってきたことです。
遠い遠い宇宙の地平線へ広がっていくような大きな心、それが曲の中に透けて見えたと言ったらいいかなあ、とも思います。
日本の合唱団がヨーロッパの曲を演奏するとき、技術はもう十分だと思うのですが、いぜん微妙な違和感を覚えるのは、歌の精神的な方向性がまだどうも定まりきらないような、そういう感じがあるからではないでしょうか。
ヨーロッパの合唱団は、この神が遠ざかる時代にあってもなおキリスト教文明が体の奥にしみこんでいるからでしょう、団員個々人になんの指図をしなくてももう分かりきったこととして声があの聖堂のクーポラ(ドーム)の方、すなわち天上の方へ方向づけられ、そうして大きな調和と統一が高い次元で達成されるように思えます。
一方、わたしたち日本人の発声は自然の状態ではどうやら水平の方向に進みます。
西方浄土が西の地平線の向こうにあるという仏教のビジョンもあるいは影響しているかもしれませんが、それよりもむしろ今日わたしたちが歌というものを考えるとき、それを人から人への世俗のメッセージとみなす、この水平の構造が大きな役割を演じているのではないでしょうか。
むろんこれはどちらが優れているかとか劣っているとかとかいう問題ではありません。
そういう文化の形を持っていて、そこにはそれぞれの形にかなった表現があるだろうということです。
その点で西宮混声合唱団の今回の「良寛詩抄」は、水平方向への奥行きがまさしく広大無辺に広がっていく、そのような無限の空間感覚がありました。
わたしたちの胸にスーッと入ってきたのです。
スーッとごく自然に入ってきて、わたしたちの心を誘って、世俗を超え、魂の清浄な世界へ連れ出していったのです。
そして水平方向へ無限に広がっていくということは、それだけ垂直方向にも高く、深くなっていったということです。
宇宙に壁を立てない良寛さんの生き方が現代にあざやかなリアリティーを持ちながら曲の中に甦ったと、そう言ってもいいでしょう。
合唱団に大きな財産が生まれました。
なににも代えがたい魂の財産です。
さて西宮混声合唱団は来年の定期演奏会を兵庫県立芸術文化センターの大ホールで開く予定で、千秋次郎さんは今度は江戸・元禄時代の歌謡集「松の葉」に作曲して、「江戸の恋唄」を発表する計画です。
大きな楽しみができました。
同合唱団はhttp://www9.plala.or.jp/nishikon/
☆
なお「良寛詩抄」の論評をこのブログの姉妹編「批評紙Splitterecho(シュプリッターエコー)Web版」に掲載しています。ご訪問ください。
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