小さな集落に入って程なく、目的の宿「ポメロゲストハウス」に到着した。
素朴な看板に導かれて数歩歩いたところで、小さな門扉の向こうにウッドデッキのテラスが広がっていた。
すぐ手前に西洋人のカップルが向かい合って座っていた。
「Hi.」
と声を掛けられ、
「サバイディー。チェックインしたいんだけど、何処に行けばいい?」
と尋ねたところ、
「ようこそ。ここでいいわよ。」
と女性が答えた。
「え、オーナーは何処に?」
「彼女さ。ぼくはスタッフさ、何もやらないけどね。」
と男が言ったが、冗談なのか女が笑った。
テラスはメコン川に向かって迫り出すように造られていた。屋根は無く、夜気を含んだ心地よい風が昼間の暑さを忘れさせる。中央にはウッドデッキの下から大きな樹が伸びていて、大きな緑の実を成していた。なるほど、ポメロゲストハウス。樹に成っているのは正しくポメロだった。
ポメロとは日本で言うところのザボンに該当するだろうか、とにかく大きな柑橘類の果物だ。タイではよく薄皮を剥いた実をプラスチックの食品トレイに並べて売っている。果実を構成する一粒々々がとにかく大きく、しっかりと固いので食べ応えがある。そして頬張った時に拡がる爽やかな、しかし甘過ぎない風味が私を虜にさせた。それだけにこの宿が気になっていたのだった。
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「あら、日本人?あちらの方も日本人よ。」
テラスのソファーで寝転びながら本を読んでいる男がいた。こちらを向く訳も無く、恐らくは人里離れた所を好んでここまで来たのだろう。こんな辺境まで来て日本人と会う不運を呪っているに違いない。同国出身の客に声を掛けない私に、彼女は不思議に思ったらしい、一瞬の間が空いた。
「貴方がたは何処から?」
「スイスよ。」
「なんでまたこんな所に宿を?」
「あら、多いのよ。あっちの島でも欧州人が開いている宿いくつか知ってるわ。」
北部ラオスでは中華系の宿をいくつも見たが、陽を浴びられるこちらでは欧州人の人気が高いということだろうか。もっとも北部に中華系が多いのは、中国からタイへ抜ける交通の要衝としての理由だろうが。
「部屋に案内するわ。」
と女主人から電気ランタンを渡され、テラスから外に出た。民家の窓から灯りが漏れているものの、周囲はほぼ闇に近い。慎重に足元を確認しながら歩く。
母屋から2~30メートルぐらい歩いただろうか、思っていたより距離がある。私の部屋は一軒のバンガローだった。二部屋から成るスイートで、リビングと寝室、浴室と連なった手洗い。浴室の床板には敢えて隙間を空けていて、水はそのまま地面に落ちる。テラスには小さなテーブルと椅子が二脚。カンボジアへ続くメコン川の水平線を眺望できる。こんな部屋で一泊しか出来ないのはなんと惜しいことか。
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「ところで、明日の帰り道にコーンパペンの滝を見たいんだけど。」
「コーンパペンはちょっと遠いわね。朝7時にここを出ることになるけど、それで良ければタクシーと船を手配しておくわ。」
「幾らぐらいだろう。」
「調べておくわ。」
「後で夕食を食べに行くから、その時に教えてもらえたら。」
そう行って彼女が去った後、堪らずすぐに服を脱いで、シャワーで昼間の汗を洗い流した。
夜、財布をリビングの机の上に置いたまま床に就いた。日本に持ち帰るべくバンコクで引き出した会社の金はリュックに入れ、寝室に持ち込んだ。隣のバンガローにも客がいるのか、遅くまで2~3人の男の話し声が聞こえていた。気味が悪く、寝室の照明をずっと点けたまま眠りに就いた。
朝7時、リュックを持って母屋へ向かおうと外に出て初めて気付いた。隣にバンガローなど無い。私の部屋は全くの一軒家だったのだ。昨夜の男の声は何処から聞こえていたのだろう。すぐに戻ってリビングに置いた筈の財布を探したが、忽然と無くなっていた。
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母屋へ行き、女主人に理由を話し、日本円を入れていた別の財布から宿泊代を出そうと思って1万円札を見せた。
「日本円で払わせてもらえないかな。」
「ごめんなさい、日本円は扱っていないの。これが幾らかも分からないの。」
と言われても、タイバーツは幾らも残っていない。リュックの中の会社の金を調べると、バンコクで両替した大量の日本円と半端なタイバーツがあった。パクセーに帰るには何とか足りる。流用した分はバンコクで自分の金から補填すれば済む。しかし宿泊代は…
と肩を落としている間に、男が女主人を呼んでパソコンを見せた。
「えっ!」
と彼女は声を上げ、慌ててレジを引き出し紙幣を数え始めた。
「両替レートで日本円を調べたわ。幾らお返しすればいいかしら。」
と私は逆に訊かれる立場となった。
しかし財布を失ったのは明らかに自分の過失だ。盗られたという証拠が無い以上、自分が紛失したことに違いはない。
「財布を失くしたのは私のミステイクだから、このまま受取って下さい。」
「そんなの申し訳ないわ。」
「いやいや、申し訳ないのは寧ろ私ですから、どうぞこのまま。」
と押し問答になって、彼女は何度も「ごめんなさい」と謝った。彼女らを逆に恐縮させてしまい、申し訳ない気持ちを残したまま、迎えに来たシクロで宿を後にした。
人柄がとても良い、フレンドリーな宿だった。また必ず来よう。今度は3日は泊まるつもりで是非来たい。そう思わせる、素晴らしい宿だった。
余談:
冷房付きのバスでパクセーに帰って驚いた。
ターミナルでも何でもない住宅地で、バスは終点となった。
「バスターミナルは幾つもある」とはこのことだったのかと、漸く納得した。
素朴な看板に導かれて数歩歩いたところで、小さな門扉の向こうにウッドデッキのテラスが広がっていた。
すぐ手前に西洋人のカップルが向かい合って座っていた。
「Hi.」
と声を掛けられ、
「サバイディー。チェックインしたいんだけど、何処に行けばいい?」
と尋ねたところ、
「ようこそ。ここでいいわよ。」
と女性が答えた。
「え、オーナーは何処に?」
「彼女さ。ぼくはスタッフさ、何もやらないけどね。」
と男が言ったが、冗談なのか女が笑った。
テラスはメコン川に向かって迫り出すように造られていた。屋根は無く、夜気を含んだ心地よい風が昼間の暑さを忘れさせる。中央にはウッドデッキの下から大きな樹が伸びていて、大きな緑の実を成していた。なるほど、ポメロゲストハウス。樹に成っているのは正しくポメロだった。
ポメロとは日本で言うところのザボンに該当するだろうか、とにかく大きな柑橘類の果物だ。タイではよく薄皮を剥いた実をプラスチックの食品トレイに並べて売っている。果実を構成する一粒々々がとにかく大きく、しっかりと固いので食べ応えがある。そして頬張った時に拡がる爽やかな、しかし甘過ぎない風味が私を虜にさせた。それだけにこの宿が気になっていたのだった。
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「あら、日本人?あちらの方も日本人よ。」
テラスのソファーで寝転びながら本を読んでいる男がいた。こちらを向く訳も無く、恐らくは人里離れた所を好んでここまで来たのだろう。こんな辺境まで来て日本人と会う不運を呪っているに違いない。同国出身の客に声を掛けない私に、彼女は不思議に思ったらしい、一瞬の間が空いた。
「貴方がたは何処から?」
「スイスよ。」
「なんでまたこんな所に宿を?」
「あら、多いのよ。あっちの島でも欧州人が開いている宿いくつか知ってるわ。」
北部ラオスでは中華系の宿をいくつも見たが、陽を浴びられるこちらでは欧州人の人気が高いということだろうか。もっとも北部に中華系が多いのは、中国からタイへ抜ける交通の要衝としての理由だろうが。
「部屋に案内するわ。」
と女主人から電気ランタンを渡され、テラスから外に出た。民家の窓から灯りが漏れているものの、周囲はほぼ闇に近い。慎重に足元を確認しながら歩く。
母屋から2~30メートルぐらい歩いただろうか、思っていたより距離がある。私の部屋は一軒のバンガローだった。二部屋から成るスイートで、リビングと寝室、浴室と連なった手洗い。浴室の床板には敢えて隙間を空けていて、水はそのまま地面に落ちる。テラスには小さなテーブルと椅子が二脚。カンボジアへ続くメコン川の水平線を眺望できる。こんな部屋で一泊しか出来ないのはなんと惜しいことか。
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「ところで、明日の帰り道にコーンパペンの滝を見たいんだけど。」
「コーンパペンはちょっと遠いわね。朝7時にここを出ることになるけど、それで良ければタクシーと船を手配しておくわ。」
「幾らぐらいだろう。」
「調べておくわ。」
「後で夕食を食べに行くから、その時に教えてもらえたら。」
そう行って彼女が去った後、堪らずすぐに服を脱いで、シャワーで昼間の汗を洗い流した。
夜、財布をリビングの机の上に置いたまま床に就いた。日本に持ち帰るべくバンコクで引き出した会社の金はリュックに入れ、寝室に持ち込んだ。隣のバンガローにも客がいるのか、遅くまで2~3人の男の話し声が聞こえていた。気味が悪く、寝室の照明をずっと点けたまま眠りに就いた。
朝7時、リュックを持って母屋へ向かおうと外に出て初めて気付いた。隣にバンガローなど無い。私の部屋は全くの一軒家だったのだ。昨夜の男の声は何処から聞こえていたのだろう。すぐに戻ってリビングに置いた筈の財布を探したが、忽然と無くなっていた。
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母屋へ行き、女主人に理由を話し、日本円を入れていた別の財布から宿泊代を出そうと思って1万円札を見せた。
「日本円で払わせてもらえないかな。」
「ごめんなさい、日本円は扱っていないの。これが幾らかも分からないの。」
と言われても、タイバーツは幾らも残っていない。リュックの中の会社の金を調べると、バンコクで両替した大量の日本円と半端なタイバーツがあった。パクセーに帰るには何とか足りる。流用した分はバンコクで自分の金から補填すれば済む。しかし宿泊代は…
と肩を落としている間に、男が女主人を呼んでパソコンを見せた。
「えっ!」
と彼女は声を上げ、慌ててレジを引き出し紙幣を数え始めた。
「両替レートで日本円を調べたわ。幾らお返しすればいいかしら。」
と私は逆に訊かれる立場となった。
しかし財布を失ったのは明らかに自分の過失だ。盗られたという証拠が無い以上、自分が紛失したことに違いはない。
「財布を失くしたのは私のミステイクだから、このまま受取って下さい。」
「そんなの申し訳ないわ。」
「いやいや、申し訳ないのは寧ろ私ですから、どうぞこのまま。」
と押し問答になって、彼女は何度も「ごめんなさい」と謝った。彼女らを逆に恐縮させてしまい、申し訳ない気持ちを残したまま、迎えに来たシクロで宿を後にした。
人柄がとても良い、フレンドリーな宿だった。また必ず来よう。今度は3日は泊まるつもりで是非来たい。そう思わせる、素晴らしい宿だった。
余談:
冷房付きのバスでパクセーに帰って驚いた。
ターミナルでも何でもない住宅地で、バスは終点となった。
「バスターミナルは幾つもある」とはこのことだったのかと、漸く納得した。
(アサオケンジ)
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