美術の世界では、アール・ブリュット(生の芸術)の風がますます強く吹いている気配です。
アール・ブリュットというのは、普通に言われる芸術家たちのテリトリー(領分)とは全く違ったところから現われた、新しいタイプの一群の作品です。
なかでも知的障害を持ちながら(むしろ、持っているがゆえに)特異なビジョンを描き出す作家たちの活動がしばしば話題にのぼります。
そのアール・ブリュットの二人の巨匠、ルボシュ・プルニー(1961生まれ、チェコ)とアンナ・ゼマーンコヴァー(1908―1986、チェコ)の展覧会が神戸の兵庫県立美術館で開かれています。
題して「解剖と変容」。
見てきました。
プルニーの絵、そこにあるのは、肉体、肉体、また肉体、です。
むしろ、臓器、臓器、また臓器、といったほうがイメージを描きやすいかもしれません。
人体解剖に強い関心を持ち続けている作家です。
さまざまな器官が、あるときはそれとはっきりわかる形で、あるときは大胆にデフォルメされて、いたるところに現われます。
正直いって、ぼくの体にはこれを美しいと感じる感覚はあまりはっきりとはありません。
しかし、これらの絵の前をそしらぬ顔では通れない不穏な気分がゴボリと頭をもたげます。
現代は人間をこんなふうに見ている、という21世紀的な人間観がたぶんそこにあらわれているからです。
じっさい、ぼくたちが生きているこの世紀は「臓器の時代」と、そう言ってもいいようです。
臓器の移植、臓器の再生、臓器の売買…。
かつて生きるということは、身体と名付けられたある領域の、いささか漠然とはしているけれど全体の問題でした。
いっそう運命とか宿命とか必然とか偶然とか、いっそう漠然とした状況にかかわる問題でもありました。
しかしいまは、肝臓の問題であったり、肺臓の問題であったり、心臓の問題であったり、つまり個別の臓器の問題です。
人間の生命は、衰弱した臓器や傷ついた臓器をどう修復し、どう長持ちさせるか、そういう問題に縮められているのです。
つまり、人間はいまや臓器の集合体にほかなりません。
フランスの哲学者ジル・ドゥルーズは20世紀の後半にいちはやくそうした器官偏重の人間観を批判して、器官を乗り超える人間観、つまり「器官なき身体」という考え方打ち出しました(1980年、ガタリとの共著「ミル・プラトー」)。
人間は器官の集積、あるいはそれへの執着を超えた、もっと大きな、もっとダイナミックな、もっと流動的な場だという考えです。
「器官なき身体」というビジョンは、もともと統合失調の因子をもっていた20世紀の大天才、詩人で小説家で演劇家で俳優のアントナン・アルトー(1896―1948)の発想ですが、この脱―臓器型の人間観を一方の極に置くなら、今展のプルニーの作品はその対極の、まさに臓器だらけのビジョンということができるでしょう。
21世紀を生きているぼくたちの自画像がそこに写し取られているのです。
プルニーな作品一点一点は、ぼくらを透写する鏡です。
他方、ゼマーンコヴァーの絵は、みたところ植物がモチーフです。
茎があり葉があり花があり実がありますから、まず草木の形が見えますが、しかしその形態は、しばしば丸く、厚く、むしろ環形動物を連想させるような肉感をもっていて、うごめきそうでさえあります。
動物化された植物、というよりも、内部で動物の遺伝子と植物の遺伝子の部分的な交換があったようです。
それは危険な交配ではなかったでしょうか。
葉やツルや花があまりに過剰に進化した異形の草木は、生の継続を予感させるというよりも、むしろそこでの最終的な完成、つまり死を予告しているように見えるのです。
これもまた、ぼくらが生きるこの時代の、豪華な自画像なのかもしれません。
二人の作家の奇妙な共通点に、ボディブローのような衝撃を受けました。
プルニーは「父」と「母」という一対の作品で、それぞれ父親と母親の遺骨灰をガラス器に封印して、画面の中央に仕込んでいます。
ゼマーンコヴァーは、四歳で病死した長男の遺骨灰を壺に入れ、一生それをそばから離さずに暮らしたようです。
プルニーは父母から過剰なまでの教育を受け(不自然なほどの関心を注がれ続け)、どうやらそれが自立の時期を難しくさせたようです。
ゼマーンコヴァーは逆に厳格な母となって、子供に完全な従順さを求めたようです。
先のドゥルーズは、親と子の間に精神分析的(フロイト的)な闇を覗くことに強い批判を書いていますが(「アンチ・オイディプス」)、この二人の画家を見るかぎり、ドゥルーズの楽天的な主張に反して、その闇はずいぶん深いように思えます。
アール・ブリュットというのは、普通に言われる芸術家たちのテリトリー(領分)とは全く違ったところから現われた、新しいタイプの一群の作品です。
なかでも知的障害を持ちながら(むしろ、持っているがゆえに)特異なビジョンを描き出す作家たちの活動がしばしば話題にのぼります。
そのアール・ブリュットの二人の巨匠、ルボシュ・プルニー(1961生まれ、チェコ)とアンナ・ゼマーンコヴァー(1908―1986、チェコ)の展覧会が神戸の兵庫県立美術館で開かれています。
題して「解剖と変容」。
見てきました。
プルニーの絵、そこにあるのは、肉体、肉体、また肉体、です。
むしろ、臓器、臓器、また臓器、といったほうがイメージを描きやすいかもしれません。
人体解剖に強い関心を持ち続けている作家です。
さまざまな器官が、あるときはそれとはっきりわかる形で、あるときは大胆にデフォルメされて、いたるところに現われます。
正直いって、ぼくの体にはこれを美しいと感じる感覚はあまりはっきりとはありません。
しかし、これらの絵の前をそしらぬ顔では通れない不穏な気分がゴボリと頭をもたげます。
現代は人間をこんなふうに見ている、という21世紀的な人間観がたぶんそこにあらわれているからです。
じっさい、ぼくたちが生きているこの世紀は「臓器の時代」と、そう言ってもいいようです。
臓器の移植、臓器の再生、臓器の売買…。
かつて生きるということは、身体と名付けられたある領域の、いささか漠然とはしているけれど全体の問題でした。
いっそう運命とか宿命とか必然とか偶然とか、いっそう漠然とした状況にかかわる問題でもありました。
しかしいまは、肝臓の問題であったり、肺臓の問題であったり、心臓の問題であったり、つまり個別の臓器の問題です。
人間の生命は、衰弱した臓器や傷ついた臓器をどう修復し、どう長持ちさせるか、そういう問題に縮められているのです。
つまり、人間はいまや臓器の集合体にほかなりません。
フランスの哲学者ジル・ドゥルーズは20世紀の後半にいちはやくそうした器官偏重の人間観を批判して、器官を乗り超える人間観、つまり「器官なき身体」という考え方打ち出しました(1980年、ガタリとの共著「ミル・プラトー」)。
人間は器官の集積、あるいはそれへの執着を超えた、もっと大きな、もっとダイナミックな、もっと流動的な場だという考えです。
「器官なき身体」というビジョンは、もともと統合失調の因子をもっていた20世紀の大天才、詩人で小説家で演劇家で俳優のアントナン・アルトー(1896―1948)の発想ですが、この脱―臓器型の人間観を一方の極に置くなら、今展のプルニーの作品はその対極の、まさに臓器だらけのビジョンということができるでしょう。
21世紀を生きているぼくたちの自画像がそこに写し取られているのです。
プルニーな作品一点一点は、ぼくらを透写する鏡です。
他方、ゼマーンコヴァーの絵は、みたところ植物がモチーフです。
茎があり葉があり花があり実がありますから、まず草木の形が見えますが、しかしその形態は、しばしば丸く、厚く、むしろ環形動物を連想させるような肉感をもっていて、うごめきそうでさえあります。
動物化された植物、というよりも、内部で動物の遺伝子と植物の遺伝子の部分的な交換があったようです。
それは危険な交配ではなかったでしょうか。
葉やツルや花があまりに過剰に進化した異形の草木は、生の継続を予感させるというよりも、むしろそこでの最終的な完成、つまり死を予告しているように見えるのです。
これもまた、ぼくらが生きるこの時代の、豪華な自画像なのかもしれません。
二人の作家の奇妙な共通点に、ボディブローのような衝撃を受けました。
プルニーは「父」と「母」という一対の作品で、それぞれ父親と母親の遺骨灰をガラス器に封印して、画面の中央に仕込んでいます。
ゼマーンコヴァーは、四歳で病死した長男の遺骨灰を壺に入れ、一生それをそばから離さずに暮らしたようです。
プルニーは父母から過剰なまでの教育を受け(不自然なほどの関心を注がれ続け)、どうやらそれが自立の時期を難しくさせたようです。
ゼマーンコヴァーは逆に厳格な母となって、子供に完全な従順さを求めたようです。
先のドゥルーズは、親と子の間に精神分析的(フロイト的)な闇を覗くことに強い批判を書いていますが(「アンチ・オイディプス」)、この二人の画家を見るかぎり、ドゥルーズの楽天的な主張に反して、その闇はずいぶん深いように思えます。
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