木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

助成金・交付金で生まれる悲劇

2011年12月11日 | Weblog

『それでも日本人は戦争を選んだ』を読む。
09年に発行された、東京大学教授加藤陽子の著書。買ったままにしておいたのだが、ようやく完読した。
「真珠湾攻撃」から70年。近頃は12月8日のその日になって、ニュースなどで取り上げられて「ああ、そうだったけ」と思うぐらいで、歴史は遠ざかっていく。
加藤先生は栄光学園高校の歴史クラブの生徒を相手に明治以降の近・現代史を共に考える授業を展開し、それを記録した本である。
資料を読み込み、加藤先生自身の頭と感性で語っているのが新鮮だ。
特に最終章の中の「満州の記憶」が心に残った。
長野県は全国で最も多く中国東北部=満州に開拓団を送ったところだ。
なぜそういうことになったか。知られている理由としては、昭和恐慌の影響で、長野県農村の主要産物であった養蚕が生糸値の暴落で大打撃をこうむったことだ。
特に長野県南部は平地が少なく、養蚕に頼る比率が北部より多く、より多くの人々が満州にわたり、あの敗戦の混乱時の悲劇をむかえることになるのだ。
しかしその前に、これら長野県南部の村々では、分村という形で村ぐるみ満州に移民すれば村に道路整備や産業振興のための助成金をだしますよという政策が国や県によって推し進められ、財政の苦しい村々がこれに応募していく流れになっていったという経過がある。
加藤先生は敗戦時のソ連軍の侵攻や、関東軍が満州移民を置き去りにしたことばかりに目がいくけれど、その前に行政が何をしてきたかということを見なくてはと言う。
この悲惨な体験を記録にして残したのが飯田市歴史研究所編『満州移民』だ。
飯田市周辺の村で最も多く移民を送り出したところでは5人に1人が満州に渡ったことになるという。
県の担当者が助成金を背景に熱心に進めた結果、村々は争って助成金獲得のための満州移民に狂奔していくことになる。
このような体質は今現在にも続いている。
「合併特例債」というエサで争うように行われた「平成の大合併」がそれだ。
原発立地に対する交付金も同じ構図だろう。

しかしこのような流れに組しない見識のある指導者もいた。
大下条村の佐々木忠綱村長は「村民の運命を金と交換するような分村」には反対した。
また開拓団の中でも、賢明な団長に率いられたところは、日頃から現地の中国人と良好な関係を築くように心を砕き、敗戦時にはすぐ現地の中国農民の代表と話をつけ「農場や建物はあげるから、引き揚げのために安全なところまでの道案内と警護を頼む」と依頼し、最も少ない死亡率で帰ってきた千代村の例が記されている。
真のリーダーとは日常の生活や行動の中にある。敵を作ってたたく橋下流をリーダーの資質だと間違えてはならない。

コメント (2)
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