「いつか君と河のはじまりを探しに行こう」
と語るアレクシス。河のはじまりは涙に濡れた草原であったという・・・
「真夜中の弥次さん、喜多さん」をちょっと思い起こす・・・
「看守さん、私は難民です。どこへ行っても難民です。」
エレニは、物語のスタート地点ですでに故郷と家族を失っており、心に決して塞がらない穴が開いている。やがて彼女は愛する者たちと次々と引き剥がされて行く。再会の喜びは次に来る喪失をより強く、より哀しくするだけ。拠り所を失ってゆくエレニは、直喩的にも隠喩的にも「難民」そのものなのだ。
************************************************************************************************************************
余談から
僕とテオ・アンゲロプロスとの対戦成績は、これを観る前までは0勝2敗で僕の負けでした。
どういうことかといいますと、これまで「ユリシーズの瞳」「永遠と一日」の二回、アンゲロプロスに挑戦し、2回とも30分で熟睡するという惨敗ぶり。
それほど相性の悪いアンゲロプロスの映画を観るのは勇気のいることだ。俺はまた寝るために1800円払う気か!?・・・いや、しかし、アンゲロプロス映画ってやつはいつか超えなければならない壁なんだ。とはいえ、入院明け、松本→山形→東京の旅行途中、前日結婚式で飲み過ぎ睡眠不足、しかも上映時間3時間・・・すべてが「寝るに違いない」と確信するに足る状況であった。しかし僕は果敢に対アンゲロプロス戦ラウンド3に挑んだのだった。そして・・・
寝ないどころか・・・ファーストショットから心を奪われ、
ファーストシーン
続く村の全景をなめるようにゆっくりパンして映すショットの美しいことといったら!!
この映画は絶対寝ないと確信。
結果として「サマリア」と並ぶ本年度のベスト候補ですじゃ。
現在のアンゲロプロスとの対戦成績・・・1勝2敗
余談終わり
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これほど美しい映像をこれまで観たことがあっただろうか。
村を丸々一つ作った巨大なオープンセット。しかも中盤ではその村を水没させる。生涯最高の名ショットを目撃することとなった。20世紀前半のギリシャを一人の女性の苦難に投影した映像詩。圧倒的に美しさに酔いしれる。
花嫁衣装での駆け落ち。舞台上で役者のように逃げたエレニに罵声を浴びせるスピロス。スピロスの葬式。
スピロスの葬式
アメリカ行きの船に向かうアレクシスとエレニを赤い毛糸が繋ぎ・・・そして途切れる。川の対岸の息子の亡骸。土手の向こうに広がる海。全てのショットで美しさに圧倒される。
ほとんどが1シーン1ショット。20世紀という悲しみの時代の断片が、ゆっくりとゆっくりと流れていく。スクリーンに横たわる大河の流れのようにゆっくりと・・・
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ふと気づいたこと。
この映画の登場人物は誰一人食事をしない。
酒を飲むシーンはある。踊り、歌い、音楽を奏でる。疲れた様に眠りこけ。セックスの事後と思われるシーンもある。しかし食事をするシーンは一つも無い。
どういうことか?
思うに、彼らは20世紀前半のギリシャの亡霊ではないのか?
食べるという行為は、生命力に満ちあふれている。人間性を前面に押し出しもする。
亡霊である彼らに、食事の必要はない。情欲や感情を喚起させる描写はあってもいい。この映画で眠る人々はみな安息ではなく疲労がにじみ出て死んだように眠る。(死体役の人の胸が呼吸で上下するのは・・・ま、長回しに耐えられなかっただけかもしれんけど、この映画での死と眠りの類似性を考えれば、「有り」かな、という気もしてくる。)
食事とは直喩的に「生命を持続させる行為」であり、すでに死んでいる彼らには不必要な描写なのだ。
アンゲロプロスは20世紀は悲しみの時代だという。特に女が悲しんだ時代だ。あまりに多くの苦難。日本人的解釈でいけば、「成仏できずに幽霊となった」
エレニが戦場跡を訪れ、息子ヤニスの死体を発見する。エレニとヤニスの間には川が横たわり、生者と死者を隔てるまるでその川はまるで「三途の川」。
映画で重要な川。悲しみのメタファー。そして、人間と人間を隔てる境界線(難民と故郷、母と息子・・・etc)
ギリシャ人あるいは欧米人が川から何を連想するかはよく知らない。我々日本人は「三途の川」を連想し、生と死を分つ川、死のメタファーとして写る。
彼らは三途の川を渡れず、成仏できない亡霊のように思える。中盤、川が氾濫し村が水没する。川の真ん中でうろうろする人々は生でも死でもない。そして終盤になると度重なる投獄で心身疲れきったエレニの心は時間も空間も飛び越える。愛するものを失う辛苦を味わうために、彼女の心は川へ、そして海へと飛ぶ。
20世紀は命も国家もイデオロギーも何もかもゆっくりと失われていった時代であり、その緩慢さゆえに死者たちは亡霊となってアンゲロプロスの映画に焼き付けられている。
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自主映画撮ってます。松本自主映画製作工房 スタジオゆんふぁのHP
と語るアレクシス。河のはじまりは涙に濡れた草原であったという・・・
「真夜中の弥次さん、喜多さん」をちょっと思い起こす・・・
「看守さん、私は難民です。どこへ行っても難民です。」
エレニは、物語のスタート地点ですでに故郷と家族を失っており、心に決して塞がらない穴が開いている。やがて彼女は愛する者たちと次々と引き剥がされて行く。再会の喜びは次に来る喪失をより強く、より哀しくするだけ。拠り所を失ってゆくエレニは、直喩的にも隠喩的にも「難民」そのものなのだ。
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余談から
僕とテオ・アンゲロプロスとの対戦成績は、これを観る前までは0勝2敗で僕の負けでした。
どういうことかといいますと、これまで「ユリシーズの瞳」「永遠と一日」の二回、アンゲロプロスに挑戦し、2回とも30分で熟睡するという惨敗ぶり。
それほど相性の悪いアンゲロプロスの映画を観るのは勇気のいることだ。俺はまた寝るために1800円払う気か!?・・・いや、しかし、アンゲロプロス映画ってやつはいつか超えなければならない壁なんだ。とはいえ、入院明け、松本→山形→東京の旅行途中、前日結婚式で飲み過ぎ睡眠不足、しかも上映時間3時間・・・すべてが「寝るに違いない」と確信するに足る状況であった。しかし僕は果敢に対アンゲロプロス戦ラウンド3に挑んだのだった。そして・・・
寝ないどころか・・・ファーストショットから心を奪われ、
ファーストシーン
続く村の全景をなめるようにゆっくりパンして映すショットの美しいことといったら!!
この映画は絶対寝ないと確信。
結果として「サマリア」と並ぶ本年度のベスト候補ですじゃ。
現在のアンゲロプロスとの対戦成績・・・1勝2敗
余談終わり
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これほど美しい映像をこれまで観たことがあっただろうか。
村を丸々一つ作った巨大なオープンセット。しかも中盤ではその村を水没させる。生涯最高の名ショットを目撃することとなった。20世紀前半のギリシャを一人の女性の苦難に投影した映像詩。圧倒的に美しさに酔いしれる。
花嫁衣装での駆け落ち。舞台上で役者のように逃げたエレニに罵声を浴びせるスピロス。スピロスの葬式。
スピロスの葬式
アメリカ行きの船に向かうアレクシスとエレニを赤い毛糸が繋ぎ・・・そして途切れる。川の対岸の息子の亡骸。土手の向こうに広がる海。全てのショットで美しさに圧倒される。
ほとんどが1シーン1ショット。20世紀という悲しみの時代の断片が、ゆっくりとゆっくりと流れていく。スクリーンに横たわる大河の流れのようにゆっくりと・・・
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ふと気づいたこと。
この映画の登場人物は誰一人食事をしない。
酒を飲むシーンはある。踊り、歌い、音楽を奏でる。疲れた様に眠りこけ。セックスの事後と思われるシーンもある。しかし食事をするシーンは一つも無い。
どういうことか?
思うに、彼らは20世紀前半のギリシャの亡霊ではないのか?
食べるという行為は、生命力に満ちあふれている。人間性を前面に押し出しもする。
亡霊である彼らに、食事の必要はない。情欲や感情を喚起させる描写はあってもいい。この映画で眠る人々はみな安息ではなく疲労がにじみ出て死んだように眠る。(死体役の人の胸が呼吸で上下するのは・・・ま、長回しに耐えられなかっただけかもしれんけど、この映画での死と眠りの類似性を考えれば、「有り」かな、という気もしてくる。)
食事とは直喩的に「生命を持続させる行為」であり、すでに死んでいる彼らには不必要な描写なのだ。
アンゲロプロスは20世紀は悲しみの時代だという。特に女が悲しんだ時代だ。あまりに多くの苦難。日本人的解釈でいけば、「成仏できずに幽霊となった」
エレニが戦場跡を訪れ、息子ヤニスの死体を発見する。エレニとヤニスの間には川が横たわり、生者と死者を隔てるまるでその川はまるで「三途の川」。
映画で重要な川。悲しみのメタファー。そして、人間と人間を隔てる境界線(難民と故郷、母と息子・・・etc)
ギリシャ人あるいは欧米人が川から何を連想するかはよく知らない。我々日本人は「三途の川」を連想し、生と死を分つ川、死のメタファーとして写る。
彼らは三途の川を渡れず、成仏できない亡霊のように思える。中盤、川が氾濫し村が水没する。川の真ん中でうろうろする人々は生でも死でもない。そして終盤になると度重なる投獄で心身疲れきったエレニの心は時間も空間も飛び越える。愛するものを失う辛苦を味わうために、彼女の心は川へ、そして海へと飛ぶ。
20世紀は命も国家もイデオロギーも何もかもゆっくりと失われていった時代であり、その緩慢さゆえに死者たちは亡霊となってアンゲロプロスの映画に焼き付けられている。
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「食事シーンがない」あるいは川への注目など、
示唆に富んだことがいろいろと書かれていて
興味深かったです。
この作品、まだまだいろんな発見がありそうですね。
長回しの撮り方は 観るものもゆっくり画面の空気を感じられるようでした
川 水が大きな脇役だったからなのでしょうか
本当に美しい映像でしたね
真摯に生きる人間・・ということにぴたりと合う心象風景のような映像とも思いました
ね ね 食事の場面 なかったでしょ?
【食事とは直喩的に「生命を持続させる行為」であり、すでに死んでいる彼らには不必要な描写なのだ。】
【彼らは三途の川を渡れず、成仏できない亡霊のように思える。】
↑ うんうん 納得です
ほかにも興味のある映画のレビューが沢山あるような出のじっくり読ませていただきますね!
ではでは~
コメントどうもです。
色んな見方ができる映画だと思います。
でも「見方」以前に、映画全体の息づかいを感じればそれでいいのかもしれないっすね
とりあえず、アンゲロプロスの旧作に再挑戦しなくては・・・
自分の拙作ブログへわざわざコメントありがとうございます。興味深くブログを見させていただきました。
また、拝見させていただけますね。
はじめてTBさせていただきました。
今後、勝手ながら、映画鑑賞と批評の参考にさせてもらいたく思っています。
どうぞよろしくお願いします。
おっしゃるとおり"河"は、この作品にとって死の象徴かもしれませんね。
そういわれてみると、冒頭も"河"の向こうから主人公をはじめとする難民が訪れるところから始まっています。
川が死を表すなど,なかなか納得の考察です.
確かに冒頭からどこか川があるところではもの悲しいというか,
生き生きとした表現がまったくなかったように思います.
それと,亡霊なのでは,というところは,僕も最後の方の
双子の息子が対立したところのシーンでいった「ママが死んだ」
という言葉から?と思っていたのですが,もしかしたら彼女は
亡霊なのかな?という気はしてました.
予告を見た時から、映像の美しさにひかれました。
期待どおりの、作品でした。
わたしも「ユリシーズ」「永遠」とも2敗してしまったもので・・・ちょっと今回も心配でした。
20世紀前半の亡霊・・・という仮説は面白いです。
水没する村、風にはためく白布、黒旗・・・象徴的なシーンばかりでおなかがいっぱいになりました。