以下は稀代の思想家絶筆の書と題して出版された西部邁氏の最後の著作である「保守の遺言」からの抜粋である。
見出し以外の文中強調は私。
4「死の岩」に乗った国の「民の家」
核武装―是非もなし
トランプ大統領が、孤立主義の立場から、「日本は、核武装でもして、自分の国は自分で守れ」といってくれている。
中略
せっかく日本に自主防衛を勧めてくれているのだから、この際、自主防衛の中核となるべき「核」のことについて正面から検討しておくに如くはない。
1970年に発効したNPT(核不拡散条約)が、我が国では、例によって不磨の世界大典として扱われている。
しかしその第6条にある(既保有国における)「核軍縮を行う義務」はいささかも誠実に行われていない。
そしてインドとパキスタンはこれを不平等条約とみなして批准せず、1998年に核武装を行っている。
イスラエルもとうに同じことをしたのみならず、すべてを秘密にしている。
さらにその第10条に「周辺事情によって脱退可能」とあることにもとづいて、北朝鮮は2003年にNPTから脱退し、核武装に国家存続の命運をかけ、その立て続く実験で世界を騒がしている。
我が国はといえば、1976年、「日米安保条約の存続」を条件としてそれを批准したままである。
北朝鮮や中国からの核威嚇にアメリカがどう対応してくれるかについて何の検討も行わずに、つまりアメリカの「核の傘」が破れているか否かに無関心を決め込んで、NPTに従順を誓っているばかりなのだ。
2017年10月末における国連の「核禁止決議」に日本が反対票を投じたのは「核の傘」は破れていない、という偽りの前提に立ってのことにすぎない。
北朝鮮を見本として―実は前世紀末からのアメリカこそが北朝鮮をはるかに上回る見本中の見本なのだが―侵略(武力先制攻撃)的な性格をあらわにしているような国家が核を保有することは、核を侵略のための威嚇およびその実行に使用する可能性が強い。
で、国際社会がそれらの国々に核廃絶を要求するのは、何の実効も挙からないではあろうものの、当然の理ではある。
しかし我が国のように70年間に及んで平和主義を天下の正義と見立てているような国家は、あくまで「報復核」としてしか使わないと国内外に向けて宣言かつ立法化した上でのことだが、核武装すべく(第10条に拠って立って)NPTを脱退して核武装に着手するのが道理というものであろう。
そうしないのは「核と聞いただけで怯える」というニュークリア・フォビア(核恐怖症)に70年にわたって罹っていることの現れとみるしかない。
我が国では核廃絶を虚しく叫び立てるのが各種の平和集会の定番となっている。
しかし、この手合は軍事について無知の極みにあるといわざるをえない。
理由は大きくいって三つあって、一つに、国際社会の国家群には他国にたいする猜疑心を強めこそすれ弱める気配はいささかもない、つまり侵略される危機が常在しているということだ。
実際、MDW(大量破壊兵器)を核に限定するのは間違いであって、通常兵器とやらによる大量殺戮ならば今や日常茶飯事となっているのであって(アラブ社会では百万の市民がすでに死に追いやられているのではないか)、それすなわち「世界平和」の叫びがいかに虚しいかの証拠にほかならない。
二つに、国連軍などは(安保常任委員会における拒否権のこともあって)監視団といった程度のものしか作れない。
仮にそれ以上のものになったとしても、軍隊としての統一性や機敏性において極めて劣ったものにしかなりえない。
そして三つに、これが最も重要な点だが、仮に核廃絶をやったとしても「核兵器を作る知識・技術」そのものは、現代文明にイリヴァーシヴル(不可逆)な要因として残りつづける。
ゆえに(核廃絶が実現されたあかつきに)どこかの国家が核武装をやってしまえば、その国家が世界を独裁するというディストピア(地獄の沙汰)が到来しうる。
現に、アメリカの防衛論学会の主流をなす(ケネス・ウォルッらの)いわゆるリアリストは、「核拡散による戦争抑止力の普遍化」、それこそが世界に平和をもたらすと主張している。
―トランプ大統領も耳学問でそれを知っているのではないか―。
第二次大戦後の70数年間、大国間に戦争が生じず、そしてその間に生じたすべての戦争が、核保有国の侵略でないとしたら、大国間の代理戦争であるのは、やはり核抑止力のせいだとみなすのが妥当ではないのか。
また、日本の核武装に最も強く反対するのがアメリカであるのは、そうなったら日本をおのれのプロテクトレート(保護領)のままにしておくことができないから、という理由にもとづいているのも明らかといってよい。
私は、個人の感情としては、核エネルギーのことをはじめとして現代文明のラディカル・イノヴェーショナリズム(急進的技術革新主義)を寒疣が立つほどに嫌悪している者ではある。
それどころか、私的な内心のそのまた本心では、ガンディの「非暴力不服従」に共感している者ですらある。
だが、人間の社会に住まう(モデルのモードに淫するものとしての)マス(大量人)は、断じて文明のリヴァーシビリティ(可逆性)を受け入れはしないのだ。
コンヴィニエンス(便利)とはコンヴィーン(皆が集まること)の謂であり、科学・技術を忌む無勢がそれに飛びつく多勢に勝つことなど絶対に起こりはしないのである。
ついでに付言しておくと、近代の軍隊と組織と戦略こそ、近代主義の権化にほかならず、「軍隊なき国家」が夢想であるということは、一つに「近代主義の乗り越え不能性」と二つに「軍隊管理の大いなる必要性」とを物語っている。
それなのに、世界どこにあっても、軍隊管理はシヴィリアン・コントロールの空語を吐く以外には何事もなされていないのだ。
この稿続く。