今夜は“中秋の名月”。 生憎座間では夜も曇りだそうですが、朧月を期待して夜空を見上げる方も多いのではないでしょうか?
月を拝む、というと神道では『月読命(つくよみのみこと)』という神様を連想しますが、今日のお月見というのはそうした神事とは離れて純粋に、月そのものを拝む・月の姿を愛でる行事であるそうです。
表題の『月天子』は月の尊称で、「お月さま」の少しかしこまった呼び名とでもいいましょうか。
この時期になると思いだされるものに、宮沢賢治の作品中の同名の詩があります。 一見素朴な詩ですが、特に現代においての私達の信仰心のあり方について教えてくれるものだと思うのです。
少し文面が長くなりますが、紹介させていただきます。
『月天子』 宮沢賢治
私はこどものときから
いろいろな雑誌や新聞で
幾つもの月の写真を見た
その表面はでこぼこの火口で覆はれ
またそこに日が射してゐるのもはっきり見た
後そこがたいへんつめたいこと
空気がないことなども習った
また私は三度かそれの蝕を見た
地球の影がそこに映って
滑り去るのをはっきり見た
次にはそれがたぶんは地球をはなれたもので
最後に稲作の気候のことで知り合ひになった
盛岡測候所の私の友だちは
――ミリ径の小さな望遠鏡で
その天体を見せてくれた
亦その軌道や運動が
簡単な公式に従ふことを教へてくれた
しかもおゝ
わたくしがその天体を月天子と称しうやまふことに
遂に何等の障りもない
もしそれ人とは人のからだのことであると
さういふならば誤りであるやうに
さりとて人は
からだと心であるといふならば
これも誤りであるやうに
さりとて人は心であるといふならば
また誤りであるやうに
しかればわたくしが月を月天子と称するとも
これは単なる擬人でない