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山腹にあるお宮への山道を、若い夫婦が慣れた足取りで登って行きます。そしてお宮が見え
る最後の曲がり道を回った時、目の前に古民家が現れました。
夫 : おかしいな。この場所にはお宮があるはずなのに小さな民家が建っている。ここには
家なんか無かったはずだ。お宮はどこかに移ったのかな。
妻 : 確かに、無かったわ。ねえ、あの暖簾を見て!お休み処・文九堂だって。私の文とあ
なたの九蔵の名前を合わせたような名前だわ。
どんな処なのかしら。覗いてみましょうよ。
夫 : 玄関のところに「思い出のお部屋へようこそ!」と書いてある旗がある。益々気にな
るね。
妻 : 私たちは娘を亡くしているわ。時間がかかったけど、やっと心の整理がついて、娘を
授けてくれたお宮さんに「これまでナナと過ごした日々を授けていただいてありがと
うございました」とお礼にきたのに、ここで「思い出のお部屋にようこそ!」と言わ
れても入りにくいわね。
二人は文九堂の前で、覗いてみようか?やめようか?と悩んでいると。玄関がスーと開いてこ
の家の主人らしき人が出てきました。
主人: いらっしゃい、文ちゃんそして久蔵さん、お待ちしていましたよ。さあ、お入りない。
夫 : あれ、どうして私たちの名前を知っているのですか?私はご主人のことを知りませんよ。
主人: 簡単なことですよ。この文九堂は文ちゃんと九蔵さんという名前の方しか、見ることも
利用することもできないお休み処だからですよ。
妻 : そんな話なんか信じられないわ。それって、ご主人のご冗談なのでしょう。
主人: ここに書いてあるでしょう。「思い出のお部屋にようこそ!」って。悪い冗談や騙しは
ありません。安心して中にお入りなさい。
二人は導かれるままに開かれた玄関先にある暖簾をくぐって中に入りました。そして土間で履物
を脱ぎ、通された部屋に入ってビックリ仰天。声が出ません。主人は唖然として声が出せない
二人に向かって、後ほど孫娘がお茶を持ってくると言い残して出て行きました。
夫 : ここはナナの部屋じゃないか。私たちは自分たちの家に戻ってしまったのだろうか?
妻 : ベッドも机もカーテンも何もかも同じだわ。どうなっているのかしら?
その時、障子の向こうで小さな咳払いが聞こえたあとスーと障子が開きました。
ナナ: いらっしゃいませ。パパ、ママ、私がお茶を持ってきたわよ。さあ、どうぞ。
妻 : あら、ナナちゃん、今日は顔色がいいのね。それにしても私たちにお茶を入れてくれると
は嬉しいわ。学校でいいことでもあったのかな?
夫 : ナナがママやパパにお茶を入れてくれるなんて、何かおねだりがある時だと考えたけど、
当たっているのかな。
ナナ: 何もないよ。で~も!今日、転校生が私の隣の席に来たの。進くんって言うの。すごく
かっこいいの。私どうしたらいいのかしら。よろしくと言われたけど、私うつむいて声
が出せなかった。明日、教室で会ったら何と言えばいいのかな。こちらから声をかけて
もいいのかな?進くんから声がかかって来るのを待った方がいいのかな。
私、どうしよう。
夫 : フフフ、さあどうしたものかな。女同士のママに聞いてごらん。
妻 : パパ、ずるいわ。私に押し付けないでよ。私にだってわからないわよ。
ナナ: 困ったな。なんだか私、夜寝られなくなりそうだわ。お茶を片付けてくるね。
ナナが出て行ったあと部屋を見渡すと、そこは古民家の一室でした。ナナの部屋は消えていたの
です。そして、部屋の障子が再び開き主人が入ってきました。
主人: どうだったかね。この「思い出の部屋」わ。二人がナナのためにお参りに来てくれたお礼
じゃよ。
妻 : それじゃ、今のナナは本物ではなかったのですか。でもあの話は本当にあったことだった
んですよ。
夫 : 私は何が何だかわからなくなった。
主人: ナナは亡くなってはいません。かぐや姫のように帰って行ったんです。きっとまたいつの
日にか戻ってきます。
そう言うと主人も、文九堂もふ~っと目の前から消えていきました。二人が我に返ったとき、なぜ
か目指していたお宮さんの前で手を合わせていました。
妻 : あら、なぜお宮さんの前にいるの?文九堂はどこに消えたのかしら?
夫 : きっと、お宮さんが私たちに楽しかった時の事を思い出させてくれたんだよ。
妻 : あのご主人、私を二度も文ちゃんと呼んでいたわ。あの顔は子供の頃に亡くなった父に似て
いたように思うな。
夫 : きっとお父さんだよ。間違いない。
妻 : 私、ここでお願いしてナナを授かったでしょう。今回もナナの時のように、新しい命と巡り
会えるような気がするわ。
夫 : そうなるといいね。でもお宮さんにはナナのこと、しっかりとお礼を言おうね。
妻 : はい。それは大切なこと。そのためにここへ来たんですものね。
若い二人に「幸多かれ」と祈る。