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福島ドライブ旅行-3 【会津鶴ヶ城と飯盛山】

2012年09月03日 | 旅行など
大内宿を後にして日光街道(118号線)を北上し会津若松『鶴ヶ城』を目指します。
『鶴ヶ城』は南北朝時代会津地方に土着した蘆名 直盛(あしな なおもり)によって造られ当時は「黒川城」と呼ばれていました。
その後奥州の覇権を狙っていた米沢の伊達政宗が破れ伊達氏が入城するも豊臣秀吉の命で伊達氏はわずか一年余で岩手山城(宮城県)へ移り、その後に入城した蒲生氏郷により天守閣をもつ城郭が整備され「鶴ヶ城」と改められました。

時代は下り幕末に会津の名を全国にした戊辰戦争がはじまります、鳥羽伏見で戊辰戦争は火蓋を切りましたが兵装を近代化した新政府軍の前に幕軍は大敗し江戸開城によって徳川三百年の歴史は終わりをつげます。

鶴ヶ城は明治時代に入って取り壊されてしまいましたが昭和40年に復元され、中は会津地方の武家文化などの博物館となっています。

    館内は階段のため妻と私は入館せず外で待つことにしました、
    私は待っている間に城を一周しながら城の写真を撮りました。

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 飯盛山『白虎隊士の墓』
奥羽越の諸藩と奥羽越列藩同盟ができ新政府軍との戦いとなり、名城鶴ヶ城は一カ月の籠城に耐えますが越後長岡城(新潟県)や二本松城が落城し鶴ヶ城は新政府軍に囲まれてしまいます。
兵士の数も少なくなり少年兵士「白虎隊」も出陣となりますが戦況がかわることは無く退却命令がで、やっとのことで飯盛山の中腹に退却しました。
高台からみた鶴ヶ城は黒い煙につつまれ、天守閣の白壁には赤い炎が燃えさかっているように見え「これまで」と自刃して果てました。

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 (11) 白虎隊士の墓 十九人の少年が眠る
     20人いたそうですが1人は川に落ちて村人に助けられ、それにより当時の状況が伝えられたとの事


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(13)  『さざえ堂』
1796年飯盛山に建立された高さ16.5m六角三層のお堂です。
正式名称は「円通三匝堂」(えんつうさんそうどう)といい、2重螺旋のスロープと言う変わった構造になっていて階段がありません。
スロープを登りきると下りのスロープとなる一方通行で参拝者は気が付かぬ間に三層に上り気が付けば一層目に降りていると言う構造になっています。
スロープに沿って西国三十三観音像が安置されいてはこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるという事だった様ですが神仏分離令によって三十三観音像は取り外されたそうです。