保存しておいた葡萄が自然発酵して酒になってから始まったと伝えられるワインは葡萄栽培の歴史とともにあったといってもよく、とてつもなく古い。
はっきりしたところでは、紀元前1600~1700世紀で、ハムラビ法典にも記載がある。
だが、実際は紀元前3000年くらいには既に飲まれていたものと考えられている。
一方、日本への伝来は比較的新しい。
岩下哲典氏は、「
蔭涼軒目録」の中の記載を引いて、室町時代である文正元年(1466年)8月1日を疑問符付きではあるが、最古の輸入例としている。
確実なところでは、天文十二年(1543年)8月25日、ポルトガル人の種子島来航が挙げられる。
キリスト教にとってワインは宗教儀式に欠かせない大事なツールであって、イエズス会の宣教師もミサ用にワインを持ってきたのである。
その後、日本が鎖国政策を取ると輸入ワインも途絶える。
では、国産のワインはどうだったかというと、明治以前には、はっきりした記録がほとんどない。
「ほとんど」と限定したのは、前述の岩下氏が著書の中で「
大猷殿御実記」の記載を引いて、正保元年8月2日、大老であった
酒井忠勝が尾張家・
徳川義直に「日本製之葡萄酒」を献上したと指摘しているからだ。
輸入ワインについて、木島章氏は「川上善兵衛伝」の中で、「明治維新まで、葡萄酒は大名を中心とした一部士族の間で珍重品としてたしなまれていただけだった」と書いているが、これはどうであろうか。「たしなんで」いたのは、かなり限定されると思う。
いずれにせよ、国産ワインの黎明が明治を待たなければならないのは確かである。
では、なぜ江戸時代には国産のワインが作られなかったかというと色々な原因があると思う。
①ワインはキリスト教での大事な道具であり、タブー視された。
たとえば、八代将軍・
徳川吉宗は、オランダ使節を引見したとき、西欧の食べ物にも非常な興味を示し、食料品の見本を取り寄せたり、オランダ人の宿舎へ側近を遣わせて、洋食を試食させたりしている。
しかし、ワインに関する記述は見当たらない。当時、ワインは公に口にするのを憚られるような雰囲気があったのかもしれない。
②葡萄自体が貴重であった。
甲府の葡萄は元和年間(1615~1623年)に医師・
永田徳本が棚作りを伝授してから盛んになったというが、しばしば将軍にも献上されている。葡萄にはさまざまな病気を治す薬効があるとされたこともあり貴重であった。
収穫高も十分でない葡萄は、葡萄酒に回す余裕がなかったのではないか、と思われる。
③製造技術が未熟であった。
江戸当時栽培されていた品種がワイン向きではなかった。そして、ワイン作りの技術を伝えてくれる人間がいなかったので、上質のワインは製造出来なかったであろう。
④日本人の口に合わなかった
この理由が一番大きいと思われる。
野菜料理が中心で、ほとんど肉を口にしなかった日本人にとって、ワインは酸味が強く、美味しくなかったと考えられる。
薬として捉えられていたとしても、葡萄にどれだけの薬効があるか疑問である。
貴重である割には、ワインは費用対効果が薄かったのが国産に限らず、江戸時代にワインが出回らなかった最大の原因であると思う。
では、国産ワインはいつから作られるようになったかというと、明治三年から四年にかけて、
山田宥教と詫間憲久が甲府で始めたのが嚆矢である。
山田は真言宗の僧侶。
日本初となるぶどう種共同醸造所は寺の境内に建てられた。
ふたりの事業はとん挫し、今でははっきりした記録も残っていない。
明治六年には
神谷伝兵衛が甘味葡萄酒の試験醸造を開始し、明治十五年には、蜂印葡萄酒を発売する。
これが今も現存する
シャトーカミヤである。
写真は優良国産ワインである井筒ワインのにごりワイン。すでに、赤と白は売り切れていた。ロゼなら若干残っているようだ。
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シャトーカミヤHP
山梨ワインの歴史
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権力者と江戸のくすり 北樹出版 岩下哲典
川上善兵衛 サントリー博物館文庫 木島章
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