木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

藤堂高虎・遺訓の謎

2009年01月23日 | 江戸の話
藤堂高虎が伊勢伊賀(現在の津市)に入府したのは、一六〇八年。関ヶ原の合戦より下ること八年。ここに三十二万三千石の伊勢藤堂家が誕生する。
昨年は、高虎入府二百年にあたる年であり、津市でも色々なイベントが行われた。
高虎というと巨漢で身長が百九十cmもあり、馬にまたがると、足が地に着いたという。その頃の馬が体高の低い日本馬だったこともあるが、高虎が大きかったことに変わりはない。
高虎は、みかけとは違い、極めて繊細な神経の持ち主だった。考え方も独特なところがある。
関ヶ原の合戦で東軍について勝利を収めた高虎は勝利後、石田三成に自分の戦略について意見を求めている。三成が指摘した欠点を高虎は真摯に捉えて反省したと言う。
高虎が亡くなったのは一六三〇年(寛永七年)十月五日であるが、高虎の遺訓を大神朝臣惟直(おおみわのあそんこれなお)という人物が一六三四年に書き残している。これが、「高山公二百条」と呼ばれるものである。
第一条は、よく知られたもので「寝所を出るよりその日を自分が死ぬ番と心得ておくべきである。このように覚悟しておけば、物に動ずる事がない」から始まる。
この編者である大神朝臣惟直という人物は、従来佐伯権之助惟直であるとされてきたが、このような人物は実在しないことが分かってきた。
佐伯氏は、初代を惟定と言い、もともとは九州大友氏に仕える武将であったが、大友氏失脚後の、文禄二年から高虎に仕えるようになって、頭角を現した。惟定は一六一八年に死去。二代目惟重は、一六四五年に死去している。
時期的に言えば惟重が合うのだが、惟直と名乗る確証がない。
書き手は、はっきりせず、偽の遺訓ではない、という可能性も100%撤廃できない。
果たして誰が書いたのか、謎である。
だが、内容は、いかにも高虎が考えるようなものである。今に通ずるものも多い。中でも「数年昼夜奉公をつくしても気のつかない主であれば、譜代であっても暇をとるべし。うつらうつらと暮らすのは意味がない」と断言している内容など、高虎らしい。
時代は下って、幕末~明治期。
藤堂高猷(たかゆき)は、鳥羽・伏見の戦いで、当初は幕府側についていたが、後に新政府軍に寝返り、幕府軍敗走の原因を作ったと言われる。
処世術ともとれるこの身の変わり方は、高虎伝来のものであろうか。


津城址 御城公園として整備されている


公園内の高虎像 逆光気味で御尊顔がよく分からないが、プロペラのような兜は豊臣秀吉より授けられたものとされる

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