鬼平こと長谷川平蔵の父親の名前は、というと、やはり長谷川平蔵である。
鬼平は、正式には長谷川平蔵宣以〈のぶため〉といい、父親は長谷川平蔵宣雄〈のぶたか〉である。
平蔵というのは、俗称、あるいは字〈あざな〉と言われるもので、宣以や宣雄は緯〈いみな〉と呼ばれるものである。
人を呼称するとき、字と緯のどちらが一般的だったかというと、鬼平の例を見ても明らかなように、間違いなく字であった。
たとえば、鬼平親子が二人並んでいるとき「平蔵殿」と呼びかけたら混乱するじゃないか、という指摘があるかも知れないが、その通りである。記録的な書物に書いてある「平蔵」が宣以なのか、宣雄なのか、分からない場合がある。
現代の日本社会には姓と名しかないが、死ぬと戒名が付けられ、生前の名は俗名とされるのは以前の名残でもある。
では、なぜ俗称とか字が呼ばれ、本名である緯が口にされないかというのは、緯の字を見れば分かる。
緯とは『忌み名』の意である。
名前自体が『忌』んでいる訳ではなく、人に口にされると『忌む』のである。
人の名前には、その人の霊が宿ると考えられていたから、その名前が音声で発せられると、そこに宿った名前の主の霊が大気中に飛び出すことになり、それを邪霊にもっていかれて、名前の主の霊が弱まってしまうと考えていたのである。
樋口清之 「日本人の歴史11」 講談社
気さくにファーストネームを呼び合う西欧人と違い、私などは直接相手を名で呼ぶのは何となく抵抗がある。
英会話学校などへ行くと、日本人どうしであっても名で呼ぶことを要求されるが、照れくさい。
学生ならともかく、いいオヤジになった者どうしで『とおる』、『けんじ』などと呼び合うのはいかがなものか。
江戸時代までは、緯で呼ばれることなどは決してなく俗称で呼ばれたが、位の上の者になると、職名や官位で呼ばれることが多かった。大岡裁きで有名な町奉行大岡忠相が『越前』などと呼ばれるのがこの例である。
平蔵は官位を持たなかったため、俗称で呼ばれた。
これは、現代で言ったら、会社で「社長」とか「専務」などと呼ぶのと似ている。会社にも社長などのように1人しかいない場合は、「鈴木社長」とか「田中社長」などとは呼ばれずに、単に「社長」と呼ばれることのほうが多い。
社長を「鈴木さん」と呼ぶ会社はほとんどないだろうし、社長を「太郎さん」などと呼ぶのは同族の小さな会社でもあり得ない話だ。
また、榎本武揚を「たけあき」ではなく、「ぶよう」と読ませる場合がある。
これは音読みのほうが、敬意がこもるとの考えからである。
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鬼平は、正式には長谷川平蔵宣以〈のぶため〉といい、父親は長谷川平蔵宣雄〈のぶたか〉である。
平蔵というのは、俗称、あるいは字〈あざな〉と言われるもので、宣以や宣雄は緯〈いみな〉と呼ばれるものである。
人を呼称するとき、字と緯のどちらが一般的だったかというと、鬼平の例を見ても明らかなように、間違いなく字であった。
たとえば、鬼平親子が二人並んでいるとき「平蔵殿」と呼びかけたら混乱するじゃないか、という指摘があるかも知れないが、その通りである。記録的な書物に書いてある「平蔵」が宣以なのか、宣雄なのか、分からない場合がある。
現代の日本社会には姓と名しかないが、死ぬと戒名が付けられ、生前の名は俗名とされるのは以前の名残でもある。
では、なぜ俗称とか字が呼ばれ、本名である緯が口にされないかというのは、緯の字を見れば分かる。
緯とは『忌み名』の意である。
名前自体が『忌』んでいる訳ではなく、人に口にされると『忌む』のである。
人の名前には、その人の霊が宿ると考えられていたから、その名前が音声で発せられると、そこに宿った名前の主の霊が大気中に飛び出すことになり、それを邪霊にもっていかれて、名前の主の霊が弱まってしまうと考えていたのである。
樋口清之 「日本人の歴史11」 講談社
気さくにファーストネームを呼び合う西欧人と違い、私などは直接相手を名で呼ぶのは何となく抵抗がある。
英会話学校などへ行くと、日本人どうしであっても名で呼ぶことを要求されるが、照れくさい。
学生ならともかく、いいオヤジになった者どうしで『とおる』、『けんじ』などと呼び合うのはいかがなものか。
江戸時代までは、緯で呼ばれることなどは決してなく俗称で呼ばれたが、位の上の者になると、職名や官位で呼ばれることが多かった。大岡裁きで有名な町奉行大岡忠相が『越前』などと呼ばれるのがこの例である。
平蔵は官位を持たなかったため、俗称で呼ばれた。
これは、現代で言ったら、会社で「社長」とか「専務」などと呼ぶのと似ている。会社にも社長などのように1人しかいない場合は、「鈴木社長」とか「田中社長」などとは呼ばれずに、単に「社長」と呼ばれることのほうが多い。
社長を「鈴木さん」と呼ぶ会社はほとんどないだろうし、社長を「太郎さん」などと呼ぶのは同族の小さな会社でもあり得ない話だ。
また、榎本武揚を「たけあき」ではなく、「ぶよう」と読ませる場合がある。
これは音読みのほうが、敬意がこもるとの考えからである。
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