木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

黄八丈は同心の定服だったか?

2015年04月12日 | 江戸の暮らし
どこぞのホームページを見ていたら、町廻同心の定服が「羽織の下に黄八丈」という表現があって引っかかった。
さっそく、手元の「江戸町奉行所辞典」を引いてみる。

定服としては黒の紋付羽織に白衣帯刀である。
白衣とは白い着物のことではなく熨斗目以外の着物の着流しをいうのである。
廻方同心あたりになると、竜紋の裏のついた三つ紋付の黒羽織を、俗にいう巻羽織といって裾を内側にめくり上げて端を帯に鋏み、現在の茶羽織のように短く着るのである。これは活動によいし、粋に見える。
夏は黒の絽か紗の羽織をつける。下は格子か縞の着流しで、帯は下のほうにしめ、懐中には懐紙、財布、十手を入れてふくらまし、身幅は女幅にして狭くし裾を割れやすくしてある。颯爽としたスタイルで足さばきも良く雪駄をはいて歩く。

とあり、羽織の下の着物は定めがないと分かる。

天保年間に発刊された「守貞謾考」によると、八丈縞は、

今世、男用は武士、医師等稀にこれを着すなり。御殿女中、上輩の褻服、下輩は晴服に着すこと専らなり。

とある。つまり、男は滅多に着ず、女性は比較的身分の高いものは勤め着に、庶民は晴れ着にしていた。
黄八丈は染色に手間が掛かり、かなり高価であった。
粋を自負する定町廻りの同心が着たかもしれないが、黄八丈が定服であったという確かな記述には行き着かなった。

医者が黄八丈を着たのは、黄色が不浄の色だからであり、定町廻りも、それに倣ったという説もあるが、真偽は分からない。


八丈は、黄色の黄八丈が有名であったが、茶色や黒色の八丈もある。
また、幕末から明治に掛けて、八丈の人気が上がると、八丈島だけでは生産が間に合わず、他の地域でも作られるようになったため、八丈島で作られたものを特に「本場八丈」といって区別したという。
いま、インターネットでみても「本場八丈」は反物で三〇万円以上する高級品だ。





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