木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

凌霜隊と陰謀

2009年03月20日 | 江戸の幕末
郡上八幡は、郡上踊りで有名である。
振り付けはごく簡単であるゆえに、誰でも参加できる。
振り付けが簡単がゆえに、奥が深いとも言えるのだが。
郡上でもうひとつ有名なのは、郡上一揆であろうか。
映画にもなった(ひどく分かりづらかったが)この一揆が起こったのは、宝暦年間。
領主金森家は、領地を取り上げられ、その代わりに封せられたのが青山家。
東京の青山の地名の由来となった殿様である。八幡藩は、石高四万八千石。
幕末、この藩に凌霜隊(りょうそうたい)という隊があった。
手元の「藩史辞典」を引いてみる。

戊辰戦争の際、会津若松城に立てこもった「凌霜隊」は八幡藩の脱藩者であった。

と簡単に一行で済ませている。
郡上八幡の歴史博物館に行っても、幕府に忠義を尽くした正義の徒、のようなことが書かれている。
しかし、これは、大きな間違い。
それらの事情については、栗原隆一氏の「幕末諸隊一〇〇選」が詳しい。
内情を知ると美談どころか、藩内の政争絡みのひどい話である。

幕末の八幡藩には二大勢力があった。

①江戸家老、朝比奈藤兵衛・・・勤皇派
②国家老、鈴木兵左衛門・・・佐幕派

藩主幸宣は、まだ14歳でしかない。
明治元年。戊辰戦争が始まると各藩は、勝ち組につこうとして、勤皇派となるか、佐幕派となるか態度を決めかね、日和見を続けていた。
その中にあって、兵左衛門は、勤皇軍が八幡藩に援軍を求めた際に、出兵を承諾した。
老獪な兵左衛門は、もし幕府軍が勝利を収めたときのことも考えて、徳川軍にも援軍を送っている。
どちらが転んでも名分が立つようにである。しかし、公に佐幕軍を送ったのではまずいので、脱藩者という扱いにした。
数は47名に過ぎない。隊の名ばかりは、「凌霜隊」と勇ましいものにした。青山家の紋章である菊が冬を耐えて春を待つところからつけられたという。
さらに、兵左衛門の狡猾なところは、「凌霜隊」の隊長に藤兵衛の長男であり一子の茂吉を選んだことである。
勤皇派が勝てば官賊として藤兵衛を退け、もし、幕府側が勝てば、自らの発案とばかりに手柄を独り占めできる。
三月に結成されたこの隊は、半年に亘る歴戦のすえ敗戦。11月に郡上藩に戻された。
その際、茂吉は囚人なみに唐丸篭に入れられ、「朝敵之首謀者・朝比奈茂吉」と大書きされていた。
隊士は、全員死罪を言い渡されるが、新政府の命により、放免された。
もとは勤皇派でもあった藤兵衛ではあったが、家族から朝敵を出したとされ、二千石取りから平侍に格下げとなった。
それを言い渡したのは、もとは、佐幕派であったが、いまや新政府の大参事となった鈴木兵左衛門であった。

栗原氏は、凌霜隊の目的を「郡上藩存続のための犠牲部隊」としている。
とても分かりやすい説明だ。

前にも書いたが、幕末に正義はない
あるのは自陣が有利となるか、不利となるかの算盤勘定だけである。


八幡城。


城から城下を望む。

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藩史辞典 藤井貞文・林睦郎監修 秋田書店
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ほっとくれもち、って何?

2009年03月18日 | 昭和のはなし
ある人が、「今は百年に一度の経済不況だ何だ、と言っているが、甚だおかしい。戦時中は、こんなものじゃなかった」と語ったことがあったが、今では太平洋戦争もはるか昔の話になってしまった。
知多半島の「武豊町歴史民族資料館」へ行くと往時を偲ばせる展示物があり、その頃の食べ物の作り方などを書いた紙が置いてある。
面白いところで昔の手作りおやつというコーナーがあった。
この地方だけのものなのか、名前も全く耳にしたことがないようなものである。
数点、ご紹介します。

①ほっとくれもち・・・米の粉を熱湯で練って握り拳大にし、せいろにもち米を敷き、砂糖を混ぜて、よく臼でついて、棒状にして切り、メリケン粉をまぶす。
②おへげ・・・ついた餅に好みによって塩、砂糖、ごまを混ぜ、四角い箱に入れて固め、薄く切る。
③ぼろ・・・・餅をつき、そこに擦った里芋を入れ、よくつき、平たくし、硬くし、四角く切る。
④竹皮の梅干・・・梅干しやしそを竹皮に入れ、先から吸う。
⑤とうまめ・・・・そらまめを茹で、干し、かちかちにする。
(同資料館備え付けのワークシートから抜粋)

などである。
食べ方も面白い。①のほっとくれは、懐に入れ、遊んでいるうちに暖かくなったものを食べる。⑤のとうまめは、海水浴で水着の中に入れ、ふやけたのを食べる、などとある。

戦争中、捕虜にきんぴらゴボウを食べさせたら、食の違いから、根っこを食べさせられたといって、捕虜虐待の疑いを掛けられたらしいが、当時の日本人は、ろくなものを口にしていなかった。
きんぴらゴボウも食べることができず、サツマイモの茎をきんぴらにしたこともある。ご飯も白米100%のものは、食卓に上らず、麦、大豆、さつまいも、大根などを入れた。芋ばかりのすいとんも、よく食べたと言う。そこには、庶民の工夫があった。
戦争はもちろん「悪」であるが、豊かになった現代の食事情が必ずしも幸福につながっていないような気がしてならない。


戦争当時の回覧板。門灯や店灯をつけないようにとか、夜11時以後は室内の電気も消すようになどの注意が書いてある。

武豊町歴史民族資料館

(2014.3.31 リンク見直し)

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小説の領域

2009年03月17日 | 日常雑感
井上ひさし氏がこんなことを言っていた。
「小説家とは『小家』にして『珍説』を述ぶるもの、とは中国のどなたかが下した定義だそうであるが、これはまことに巧みなものの言い方だ。わずか20字のうちに、小説家という存在の奇妙さ、彼の義務と守備範囲、彼が旨とすべき職業上の倫理などがきちんといいつくされている」(岩波講座 日本歴史 月報22.1977年2月)
僕も井上氏の意見に全く賛成である。
井上氏は、続けて、徳川家康は替玉であった、大石内蔵助が討ったのは偽の吉良上野介であったとか、「東海道膝栗毛」にはゴーストライターがいたとか、由井正雪や西郷隆盛は逃げのびて長生きしたなどの「珍説」を披露したうえで、「歴史家が読まれたら笑い死なさるに違いない」としている。
ただ、これらの珍説は、珍説だけあって、調べていくうちに、すぐに雲散霧消してしまうという。
その中で、どうにも消えないものもあるらしい。
井上氏は、そのうちの一つに「孝明天皇暗殺説」を上げている。
言論統制の厳しかった明治・大正・昭和の官憲がこの風説を野放しにしていた。
天皇が天然痘で死んだのでは庶民と同じであり、神格化しづらいと考えた岩倉具視らが、逆に天皇暗殺説をでっち上げたのではないか、と井上氏は推理した。
すると、調べてもすぐに消えない珍説は、世論を操作しようとする施政者の影がちらつくことになる。
逆に、調べるとすぐに消えてしまう珍説は、英雄の死を悼む心優しいものが感じられる。
「小説珍説のものとしては、目の前にあるその珍説が前者であるのか後者なのか、それを見分けるたしかな眼力をまず養わなければならない」
と井上氏は結んだ。
わずかの文字数の中に、小説を読むような随筆は見事である。

以下は、個人的な主観です。興味のない方は読み飛ばしてください。

小説家は、学者ではない。
歴史を書く際であれば、想像力という助走を得て、飛び石のように点在している石の上を跳躍していくのが小説家であると思う。
その際、置き石の位置を変えるのは反則だ。
置き石というのは、既成事実と伝えられているもの。もし、この石の位置を替えるなら、どうして替え得たかを示さなくてはならない。これが井上氏の言っている「彼の義務」である。出典などを書くのは、「旨とするべき職業上の倫理」というものであろう。
一方では、この置き石の位置替えというのは、魅力的でもある。
西郷隆盛は西南の役では、死んでいなかった、の類である。
ただ、そんな主張をしているうちに、自説のみが正しいと言い出したら、もはや「小説家」ではない。正当性を主張したいがために、こじつけをさも事実のようにねじ込んでしまうと、嘘と本当がごっちゃになって、全部が嘘になってしまう。
小説家は、こんな考えもありますよ、と提示してみせるのが、本分であり、歴史的な発見を世に提示するのは、小説家の本分ではないうと思う。
この置き石の位置替えを行って、研究者から追求されていた作家がいた。
「小説が史実と違うなどという主張はとんちんかんだ」みないなことを言っていたが、小説の領域というものが分かっていないのかも知れない。

と、偉そうな話で済みません。自戒を込めたつぶやきでした。

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マウンテンのスパゲッテイ

2009年03月16日 | B級グルメ
今日は朝から身体の調子が芳しくない。
これも昨日の荒行が祟っているせいだ。
名古屋市昭和区にある喫茶店「マウンテン」。
名古屋では超がつくほどの有名店である。
超がつくほど、おいしいのではない。
超がつくほど、変なメニューで有名なのである。
大概、売れたメニューがあると追随して真似をする店が出るものであるが、この店に限ってはそんなこともない。
どこが真似をしても、「マウンテン」が元祖だとばれるからである。
一番有名なのは、甘口抹茶小倉スパゲッテイ、甘口いちごスパゲッテイあたりであろうか。
小倉スパゲッテイは麺が黄緑、いちごスパゲッテイは麺が赤い。
甘く味付けしているのである。
その上にどんと乗った生クリーム。
とにかく、甘い。
価格は、小倉が700円、苺が1000円であったが、量も多い。
これらの甘口スパゲッテイはメインディッシュというよりも、デザートとして考えると、おいしく(?)食べられるそうである。どちらにしろ、私一人ではムリ。
辛いもの好きの私としては、赤いワンピース(激辛)というのをオーダーしたが、これは辛いなどというものではなく、完食したら無料的なレベルの辛さ。唐辛子で真っ赤になっている。一目見ると、ナポリタンのような感じ。
多くの客はいくつかのスパゲテイを数人で食べ回しているようであるが(オーダーは一人一品であるが、ドリンク類でもOK)話題性という点では抜群である。
味噌煮込みスパゲッテイなどという分かりやすいものから、ヤングスパ、厚化粧など内容が分かりづらいもの、イカスミジュースのように「いかにも」的なもあるが、メニューはとにかく豊富である。大きな声で、「まずい~」と言っても、平気(?)なのもこの店の特徴。マニアの間では、一皿を食べ切ることを「登頂」というらしい。それだけ、完食が難しい料理もあるということだ。
それなのに、日曜日とはいえ、三時頃に行ったのに、満員。
リピーターはどのくらいいるのであろうか。
もちろん、メニューにはナポリタンだとか、ハンバーグスパゲッテイとか、普通のスパゲッテイもあって、そちらのほうは、普通においしかった。
赤いワンピースをオーダーしたときに、「めっちゃ辛いですよ」「辛いもの好きなので大丈夫です」と答えてしまったので、ほとんど食べきったけれど、食べ終わったときは、疲労困憊。
今日も、お腹の調子がよくない。
自業自得なのですが。

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ハノイロックス・イン・名古屋 2009 ファイナル

2009年03月13日 | ロックマニア
ハノイロックスを観に行った。
場所は、名古屋新栄にあるダイヤモンドホール。
ハノイは、知る人ぞ知る的なバンドになってしまったが、もとは1980年に結成されたフィンランドのハードロックバンドである。
マイケル・モンローの中性的なキャラと耳に馴染むポップな曲調、ギター、アンディ・マッコイの悪ガキっぽさなどが受けて、一世を風靡しかけるも、ドラムスのラズルが交通事故死。
1985年、バンドは解散してしまう。わずか5年の活動期間であった。
その後、2001年には、マイケルとアンディによりバンドは再結成。
しかし、昨年10月21日、再び解散してしまう。
決定しているコンサートツアーは予定通り行い、その後、解散となるが、日本のライブが国外最後のものとなる。
今日が川崎、あさってが仙台で終了。
さて、昨日の名古屋のライブ。
客の入りはまあまあというところで、超満員ではなかったが、それもこのバンドっぽいところ。
マイケルは、そろそろ50に手が届くというのに、相変わらずのルックス、ボーカル。アンディも同じで、何か時が遡ったかのような感じを受けた。
客層は、若い人が多かったが、中にはビンテージの人もいて、なかなか幅広い。男女比でいうと、男のほうが多かったかな。
マイケルは、ステージからバンドの象徴とも言えるバラを配るサービスまで見せた。PAの上にまで乗って唄うサービス振り。
ラストの「白夜のトラジディ」からアンコール後の「アップ・アラウンド・ザ・ベンド」で盛り上がりは最高潮。
これで見納めかと思うと、一抹の寂しさを感じたが、大音響後の耳鳴りを抱え、心地よく帰った。


P.S.大西さん、無事帰れましたか~?

ハノイロックスHP

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かむり風呂

2009年03月12日 | 江戸の風俗
コーヒーをちびちび飲むタイプの僕は蓋付きのコーヒーカップを愛用している。
やはり、蓋がないカップとは冷め方が断然、違う。
風呂も冬場などは、蓋を閉め忘れると、てきめんに冷めてしまう。
昔は、湯を焚くにも木を集めてこなければならなかったから、湯冷めしないために苦労をしたのであろう。
この「かむり風呂」というのも、そのうちのアイデアの一つ。
樽のような風呂桶に湯を張ったら、その上から竹で編んだ箱のようなものを被せる。
入浴している間も、被っていたのであろうか。
入っていないときだけ冷めないようにするだけなら、板でできた蓋を被せればよいから、むしろ、この箱は入浴している時に使っていたのだろう。
ちょっと前に顔やせサウナというのが売っていた。
養蜂所の人が被るような顔をすっぽりと覆う帽子型のものである。それは材質がビニールでできていたが、この竹でできた箱は適度に通気性もあって、なかなかいいように見える。
湯が冷めてしまうと、熱いお湯をつぎ足していかなければならない。
保温は大事な生活の知恵であった。


写真は蟹江歴史資料館にあったもの。

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忠義の碑・岩崎城

2009年03月11日 | 城趾
長久手城が出たついでではないが、岩崎城についても書きたい。
岩崎城の悲劇は有名である。
城主丹羽氏次が小牧に出征していて、留守を守っていたのは。氏次の甥であり、若干17歳の丹羽氏重である。
氏重は、全身の疱瘡が膿んでいて、兜を被るにも苦労する状況であった。
小牧・長久手の戦い時、膠着状態に陥った秀吉軍は、局面打開のため、家康の岡崎城を奇襲することを決意する(世に言う「中入り」という作戦である)。
小牧城から岡崎城に向かう途中の池田恒興軍が岩崎城に差し掛かったのは、払暁。
当初、道中を急ぐ池田軍は、岩崎城を素通りする予定でいた。
池田軍の進軍に気づいた氏次らは、いかに小城と言え、無視するとは馬鹿にしていると、攻撃を仕掛けた。思わぬ攻撃を受けた池田軍は、岩崎城を数にまかせて陥落させた。
城は何重にも包囲され、城の兵士はほぼ全員が殺戮された。
しかし、岩崎城で時間を取られた池田軍は、中入りに失敗してしまう。

この辺りの事情は、岩崎城HPに分かりやすく掲載されているので、そちらを参考にして頂きたい。
ここで、私が興味を持ったのは、「表忠義の碑」という存在である。
この碑は、岩崎城の一角に位置し、明治43年の建立。碑の文字は徳川慶喜が書いた。
この碑の存在は、大東亜戦争時にも利用された。
一億玉砕のスローガンの下、岩崎城の戦いは、いい事例になったのである。
軍服姿の兵士が、忠義の碑を見学に行っている写真が残されている。
岩崎城は、特に、この頃から名が知られるようになっていったようだ。
岩崎城は第二次世界対戦により、有名になったとも言えるのかも知れない。

岩崎城HP


岩崎城は、昭和62年に再築された。

併設する博物館にあるジオラマ。

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長久手城趾

2009年03月10日 | 城趾
小牧・長久手の戦いは有名である。
再築された小牧城は、小牧に向かう高速道路からも見え、それなりに知名度がある。
しかし、長久手城は存在すら知られていないような城になってしまっていた。
城主は、加藤太郎右衛門景常。
長久手の戦いの際、池田恒興の軍に攻められ全滅した岩崎城主丹羽氏次の姉婿に当たる。
岩崎城が攻められた時、氏次は留守にしていて、城を守っていたのは氏次の弟である氏重と景常であった。
この戦いで丹羽氏一族とともに、景常も滅ぼされたため、長久手城も廃城となる。
はるかに200年以上も経ってから、文化六年(1809年)に、尾張藩士がこの地に観音堂を建てて、供養した。
今では、住宅地の中にぽつんとした広場に観音堂があるだけで、城趾を偲ばせるものは何も残っていない。
ただ、この城趾が位置する場所は、長久手町城屋敷というから、地名に僅かに痕跡を留めていた。


奥に見えるのが観音堂。手前は整地してあるものの、何もない。

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蟹江合戦

2009年03月02日 | 城趾
さるかに合戦は有名だが、蟹江合戦はどうだろうか。蟹江敬三(古い!)の戦いではない。
ほとんど知らない人が多いに違いない。私も知らなかった。
蟹江合戦は、小牧・長久手の戦いの続編という位置づけになるのだが、小牧・長久手の戦いすらについてもあまり知られていない現在、その続編などは、知名度が更に低くなるのは当然ともいえる。
名古屋において、合戦のあった長久手は鬼門とされていて、比較的開発が遅れた地域である。
住んでいる人にとっては、合戦があったという史実は、あまり気持ちのいいものではないに違いなく、ましてや、観光地などにもならない。
関ヶ原にしろ、桶狭間にしろ、同じことが言える。ただ、住宅化が進んでいない地区においては、多少観光地めいた場所になる傾向があるようだ。
長篠のように珍しくイベントを組んで祭りにしている例などである。だが、大概は、そっとしておいて欲しい話なのだろう。
長久手の戦いは地元の住人であれば、当然あった事実くらいは知っているが、蟹江合戦は、もはや存在すら忘れかけられつつある。
戦いの規模の違いが原因なのだろうか。
蟹江合戦の発端は、小牧・長久手の戦いで敗れた秀吉が雪辱を晴らそうと起こしたとする説がある。また、尾張における制海権を確保するためとも言われている。
家康と織田信雄の仲を裂くために行われたという説もあったが、なぜ、この戦いで、二人の仲が裂かれるのか、よく分からない。
蟹江城の城主は、信雄側につく佐久間正勝であったが、当時は伊勢に戦いに行っていた。留守を守っていた前田与十郎が秀吉側と内応していたので、その手引きにより滝川一益を主将とする秀吉軍は入城した。ここまではよかったが、協力を見込んでいた大野城主山口重政の援軍を得られずに、敗退した。
天正十二年(1584年)六月のことである。
この敗戦の因となったのは、馬鹿らしいような失敗である。
海から来る九鬼大隈守に合図を送ろうとした与十郎側の狼煙が、周囲の民家に移り火し、その火を信雄の軍に発見されてしまったからだと言う。信雄軍は、急遽清州城から軍を送り、一益の船を奪う。九鬼は、素早く逃走しようとするが、信雄軍に捕まってしまった。こんな状況では、山口重政も協力はできる訳もなかった。
何だか、大した戦いではないような気がするが、秀吉はこの戦い以降、家康を力で抑えようとするのを止めたという。
そういった意味では、歴史的な戦いであり、小牧・長久手の最終戦と言ってもよい。ただ、主役の登場しない代理戦争的であり、家康VS秀吉の最後の戦いとはいえ、後世に伝わりにくかったのでは、と思われる。

蟹江城の名残を伝えるものとしては、この碑の隣に井戸が残っている。後は何も残っていないが、住宅地の真ん中に立派な石碑だけがポツンと建っている。車では行けない細い道沿いである。


ごく簡単な立て看板だけが、立てられているが、必ずしも書かれている内容は正確ではない。


すぐ近くには蟹江川が流れる。今では、蟹江川はどうということのない川である。
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