今日は雨模様のお天気だった。傘をさして歩くのはやはりうっとおしい。靴が濡れると足先の感覚が晴れの日とは微妙に違いちょっと重いなと感じる。
隣のまちの駅で電車を降りて改札を出ると改札前の広場で60歳代とおぼしき女性が携帯電話で話をしていた。
「家の中でブラジャーなんてしてへんやんか。こんな雨が降ると温度も下がってす~す~してかなわんわ」という声が聞こえてきた。
ちょっとおばちゃんと思った。
いつかこの街の本通りで携帯電話を取り出して「ごめん バイブにしてたからさっき電話に出られんかった」と言ったおばちゃんがいた。
その時は大阪のおばちゃんは面白いなあとそういう気持ちになったけれど「家の中でブラジャーなんてしてへんやんか」というのを聴くと本当に大丈夫なのだろうかと思ってしまう。
おばちゃんの親父化とでも言うのだろうか、ちょっと危ないことのような気がする。
あるいは親父よりすさまじいかもしれない。
家の中でブラジャーしていてもしていなくてもそれはいいと思うのだけれど、駅の改札出たところでそれが周りに聴こえる大きさの声で言ってしまうってちょっとやはり何かが狂っているように思えてくる。
耳が遠いからつい大きな声で言ってしまうのか、駅の改札出たところなんて話を聞かれたところでどうせ行きずりの人だしと思っておられるのかもしれない。
女性同士ばかりでつるんでいるから普段の意識が女子会モードになりきっていて、もうそんな話し方が当たり前になっている可能性も十分にある。
予備校に勤めていた頃、大阪でも多分3本の指に入るくらい名門の女子校の生徒に女子大の受験を勧めたことがある。そうするとその子が言った。
「女子大に行くのはイヤ」
「どうして」と僕は言った。
「これ以上、下品になりたくないもん」とその子は言った。
それを聴いたときなんとなくその子の言いたいことが僕にはわかるような気がした。
それで僕はその子にそれ以上、女子大は勧めなかった。
もうひとつ思い出したことがある。
中国から伝わることわざで漢文の例文によく取り上げられる言葉。
‘’士はおのれを知るもののために死す。
女はおのれをよろこぶもののためにかたちづくる。‘’
現代語訳すると
男は自分を知るもののために命を捧げ
そして女は自分を愛する者のために容姿を整える。
ということになろうか。
女性が自分を愛する者のために容姿を整えるって本当だろうか。という疑問はあると思う。
僕は男だから究極のことはわからないけれど、言葉の深い意味において 女はおのれをよろこぶもののためにかたちづくる というのは時代を超えた真実であるように思う。
結局、男でも女でも、愛し、愛されるという意識がなくなってしまうと、かたちづくるという意味でのたががゆるんでしまうのではないかと思う。
結局は愛しかないと思うのだけれど、、、。