桃の節句は過ぎたけれど近所のスーパーにはまだももの花を中心にこさえた花束がいくつかならんでいる。スイートピーの花も桃とコンビで花束になっているものもある。僕の世代はスイートピーと聴くと松田聖子の赤いスイートピーという歌を思い出す。
僕が通っていた高校の生活指導の先生がいつか全校集会で
「最近は 聖子巻(せいこまき)かなんか知らんけど女子も変なヘアスタイルの者がおる。
髪にパーマを当てることは禁止なんだ。よくもう一度生徒手帳の校則を読んでおくように」と訓示したことがあった。僕もアホな訓示やと思ったし、女子の中にもちょっと先生のことを小馬鹿にして笑っていた子もいた。
それほど当時の聖子さんの髪型は可愛かったということなのだと思う。生活指導の先生も可愛いと思って聖子さんのことをみていたかもしれない。
その聖子さんもこの3月10日で58歳となられる。あと二年で還暦か、早いなと思う。それでも今でも歌を歌っておられるのは若い頃からひたむきだったからだと思う。
聖子さんのことで話が横道にそれてしまったけれど。
何日か前の新聞に桃の節句のエピソードが載っていた。その新聞をどこへやったかわからなくなってしまったので記憶で書くと次のようなものがあった。
‘’娘のために雛人形を買って家で飾ったら三人官女の一つに眉毛が書いてない。これは製造ミスではないかとお店にクレームをつけに行ったら、三人官女の一つは既婚者の人形でそれは眉を書かずお歯黒にすることが慣例になっていると説明を受けた。あのときの恥ずかしさは忘れられない。穴があったら入りたかった。おかげでその娘も立派に育って結婚している。
私の母は雛人形を出すと、しまうのが遅れると嫁にいくのも遅れるからとしまうのに躍起になっていた。そんなにしまうのに躍起にならんでもと思っていたけれど自分に娘ができるとやはり遅れずにしまうことに躍起になってしまう。
僕のうちは雛人形がなかった。どうして従兄弟のうちには雛人形があるのにうちにはないのと母に聞くと、うちはみんな男の子だからとの返事。そんなのありえないといっても雛人形がほしいという要望は却下された。自分の子供は必ず女の子を授かって雛人形を買うんだと意気込んだらまた男の子ばかりだった。‘’
こういうのを読んでいると伝統行事が育む世代を超えた思いというものがあるのだとしみじみと思う。そういうものができれば消えないことを願いたいけれど、これだけ住宅が狭くなり、核家族が多くなり、夫婦共働きが当たり前になると伝統に固執することがまた不都合を生んでしまうかもしれない。
着物を着替えて帯締めて
今日は私の晴れ姿
春のやよいのこの良き日
何よりうれしいひな祭り
というサトウハチローさんが書いたうれしいひな祭りの歌詞を読むとそれは晴れの日はないよりはあったほうがよいとは思う。着物を買えない子もいるという議論はここではひとまず抜きにして、、、。
しかし、うれしいひなまつりという歌のリズム
タ タン タ タン タ タというパターンを核にした力強いものになっている。
新渡戸稲造の武士道では女性に薙刀(なぎなた)を推奨し、
箒(ほうき)と言う字は竹に妻と書くと指摘してあった記憶があるけれど
そういう心意気が今もあってもいいなあと思う。
最近スーパーマーケットで流れているうれしいひな祭りを聴くと、アニメソングと変わらないような歌い方になっていて七五調の歌詞の持つ抑揚や歌本来の力強いリズムがそこなわれてしまっているものが多いと思う。
ひな祭りというくらいで祭りは太鼓がつきもの。太鼓の勢いを感じさせるような歌い方や編曲が今でもあってもいいなあと思う。