芹沢光治良の「人間の運命」という小説に次のような記述がある。
“”
教祖は九十歳を過ぎてから、幾度も警察署に連行され、留置場に入れられた。警察が連行に来て周囲の人々が驚愕していると、いつも「反対するのも可愛い子供」と微笑んでいそいそと腰縄をつけられて出ていかれたという。反対するのも可愛い子供・・・そう森老人は口の中でそっと言ってみたが、目頭があつくなった。“”
※森老人とは人間の運命の主人公、森次郎の父
小説の中の話だから教祖(中山みき)が実際に「反対するのも可愛い子供」と言ったのが事実かどうか僕にはわからない。
ただ、作者の芹沢光治良はこういうことに関してはたとえ小説でも全く根拠のないことは書かない方だと僕は思う。
中山みきが晩年に警察に連行されたのは少なくとも事実だし、また中山みきのおふでさきの文章にも
「なにもかもしらずにくらすこの子供
神の目にはいじらきこと」
という下りがあるので、それらのことをつなぎ合わせて考えると作者の芹沢光治良は事実かもしくはそれに近いことを書いているように僕には思える。
人からそしられたり、非難されたりしても、あれは子供が言っていることと思えれば、それは心づよいことのように僕には思える。
ブッダの言葉にも「戦場の象がささった矢を耐え忍ぶように、私たちも人のそしりを忍ぼう」というものがある。
眞子内親王殿下もいろいろと忍んでおられるのだろうか。
今日の新聞に昨日の眞子内親王殿下の結婚延期に関するお言葉の全文が載っている。
その全文を読むと不敬な言い方ではあるけれど、特別な進学校の生徒ではなく、ごく普通の学力の、中学生・高校生が書いた作文レベルの文章のように僕には思える。
宮内庁などからの添削は受けた文章なのだろうと想像するけれど、それでも、中高生の作文レベルの文章。
一体、どうなっているんだろうと思ってしまう。
文章の中に
「様々な理由からこの結婚に対して否定的に考えている方がいらっしゃることも承知しております。しかし、わたしたちにとっては、お互いこそが幸せなときも不幸せなときも寄りそえあえるかけがえのない存在であり、結婚は私達の心を大切に守りながら生きていくために必要な選択です」という下りがある。
ここを読んだとき、内親王殿下もずいぶんいい気なことをおっしゃるもんだと思った。
“”わたしたちにとってはお互いこそが幸せなときも、不幸せなときも寄りそえあえるかけがえのない存在“”って、キリスト教式で結婚式をあげるときの神父さんの決まり文句を連想させる。
皇室って神道ではなかったのか。
僕はそうだと思っていたのだけれど。
神道で大切な考え方の一つがおかげさまということ。
内親王殿下は天皇ではない。
しかし、日本国憲法には「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基づく」と書いてある。
確かに眞子内親王殿下は天皇ではないけれど、天皇家の一員として、国費でここまで育てられてこられた方ではないのか。
そして、それは日本国憲法に書いてあるように、主権の存する、日本国民の総意に基づいて、そのようになっているのではないのか。
少なくとも僕はそのように考えている。
主権の存する国民の総意のおかげさま、という考えがこの文章からほとんど読み取ることができない。
個人の意思の尊重という変な意味で西洋式の考え方になってしまっている。
昨日、ネットに眞子内親王殿下のお考えの発表があったというニュースが出たとき、それに関連して、3年くらい前の眞子内親王殿下の婚約記者会見の動画が出てきた。
それを見ていても、眞子内親王殿下もそして、その配偶者になろうとしている方も、あらかじめ暗記したことを心もこめずに棒読みしているような感じで、あれも本当にわざとらしいものに僕には感じられる。
そして今回のごく普通の中学・高校生の作文レベルの文章としか思えない、内親王殿下のお言葉の全文。
本当に、最近コロナに始まって、ちょっと今までの常識では考えられないことが、次々と起こっていると思ってしまう。
せいさんと言う方がどこかに「私は天皇家という家柄に生まれただけで、いわれのない尊敬を人々から受けるということに関して疑問に感じてきました」という主旨の文章をどこかに書いておられたと記憶している。
そのときは、せいさんと僕の考えは相容れないと思ったけれど、今回こういう事態に遭遇すると、いわれのない尊敬という気持ちもわかるように思えてくる。
結婚はプライベートなことなので、自分たちにしかわからない事情があって、こういう作文レベルでお茶を濁したような文章しか発表できないのだとは思うけれど、本当に眞子さまにとってよきみちが開けますようにと願っている。
※作文レベルの文章しか発表できないのは今の閉塞した状況ではやむを得ないこととは思います。