芹沢光治良の人間の運命という小説に1930年、ときの浜口首相が東京駅で凶漢に銃で狙撃される事件が出てくる。
だんだん時代が第二次世界大戦へと向かっていく不穏な時代の事件だ。
新聞記者をしている主人公次郎の兄、一郎はこうした時代の背景にあるさまざまな諸問題を次郎や次郎の義父と語り合う。
そしてその言葉の最後を次のように結ぶ。
「議会は乱闘までして、議論を闘わすのだか、ぼく達をしあわせにするためには、一つもろんじられていないしね・・・考えることさえ面倒になりますからね」と。
次郎はイタリアを訪れたときのファシズムのもとにある民衆の暗い表情を思い出しつつ次のように語る。
「そんなに絶望してはいけないなあ。考えることが面倒だというのは、生きることが面倒だということだもの・・・・そんなに不安な時代かなあ」と。
“”考えるのが面倒だというのは、生きることが面倒だということ“”
そんな発想、僕は今まで持ったことがないけれど、確かに考えるのが面倒ということは、生きるのが面倒というのは一面においてとても的を射た発想だなと思う。
村上春樹さんがノルウェイの森という小説の中で次のように書いておられる。
“”
東京について寮に入り新しい生活を始めたとき、僕のやるべきことは一つしかなかった。あらゆる物事を深刻に考えすぎないようにすること、あらゆる物事を自分とのあいだにしかるべき距離を置くこと・・・それだけだった。
(中略)
深刻になることは必ずしも真実に近づくことと同義ではないと僕はうすうす感じとっていたからだ。“”
若いときこれを読んだときずいぶん救われる思いだった。
深刻に考えることは必ずしも真実に近づくことと同義ではないと。
春樹さんの小説のここを何度も読んで、深刻に考えないように自分に言い聞かせていた時期がかつての僕にはあったし、今でもこの春樹さんの小説に出てくる考え方を僕は大切に思っている。
しかし、また同時に、そんなに絶望してはいけない、考えることが面倒だということは生きるのが面倒だということ、というのも大切な考え方であるように思う。
深刻に考えないように、かと言って考えることを面倒だと思ってしまわないように、そういうバランスの中で私達の心はそれぞれになんとか均衡を保っていくものなのではないのか、そんなふうに思う。
そして、もう一つ、考えるのが面倒というのは生きるのが面倒という考え方は、人生に対する真摯で前向きな態度のありかたに通じるように思う。
どうか、心の均衡を自分なりに保ちながら生きていけますようにと願い、そして祈っている。