芹沢光治良の「人間の運命」という小説で、松木という登場人物がある宗教団体のスキャンダルのようなものを描いた小説で懸賞戯曲の二等に当選する。
その小説について主人公の次郎と、松木が話をする場面がある。その話の中で次郎は次のように語る。
「(〇〇教を)批判するには愛情によらなければ、真の批判にはならないから・・・冷たい心だったり、敵視したり、単なる好奇心で批判したら、互いに傷つくだけだからね・・・あの作品に書いたことはすべて、事実だと、君は言っていたけれど、君の友達にしろ、若い管長にしろ、あの事実は、私的なことで、人に知られたくない生活の恥部のようなもので、文学の名でも発表することは許されないと思うなあ。 中略 だからこのスキャンダルのような事実は、せめて20年あたためて、それに関係ある人々の運命を見た上で、書いたら、スキャンダルではなくなって、人を打つ文学作品に昇華できると思うがな・・・」
“”冷たい心だったり、敵視したり、単なる好奇心で批判したら、互いに傷つくだけだからね“”
本当に、50年以上前に刊行された小説で、このシーンの時代設定は1930年ころと思われるけれど、とりわけ情報化社会にある現在の私達が心に刻んでおかなければならない考え方だと思う。
互いに傷つくだけというところが、的をいていると思う。
他者を傷つけることを言うと結局、自分が傷つく。一時の、感情の高まりや怒りのために私達はそのことを忘れてしまうことがあまりにも多いと思う。
“”せめて20年あたためて、それに関係ある人々の運命を見た上で“”
というのも、本当に単に物事は長い目で見るべきという一般論でくくられるような考え方ではないように思う。
しかし、目の前にある出来事の本当の意味がわかってくるのには、実はそのくらいの年月の経過が必要というのは真実であるし、また、そういう真実を大切にする心で生きるということが大切と感じる。
結局、長い目で見て本当の意味がわかってきて、それをかみしめるという生き方をするためには、感謝と辛抱の気持ちが必要ということは言えると思う。
ブッダの言葉に、「自分を苦しめず、また他人を害しないようなことばのみを語れ。これこそ実によく説かれたことばなのである」
というものがあるけれど、本当にいつもそういうことを意識することが結局は自分のために大切だなとしみじみと思う。