『鶴見川上流』ポタリングは、東京都野津田町にある「鎧堰(よろいぜき)」まで遡ってきました。
「鎧堰」は1565年(永禄八年)に作られた農業用水(鎧堰用水)の取水堰。現在では鶴見川流域の河川整備に伴い堰本体は撤去されたが、設備の一部が史跡として保存されています。
「鎧堰」の歴史は、永禄八年(1565年)に八王子城主、北条氏照候の印版状を得て武藤半六郎が構築した。北条氏照は天象十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原城攻略による落城で秀吉から切腹を命ぜられた。しかし、この鎧堰はその後長い間地域の人々に守られ今日まで400年以上にわたって野津田地区で八町八反歩(約87000平方メートル)の水田に豊かな農業用水を供給して人々の生活を支え親しまれてきました。
川の真ん中にこんもりとした森を載せた島のようなものがあって両側に水路を分けています。そのまわりは石垣で囲われていてます。
説明板によると、かつてこの島の南側(右岸)の、今は『鶴見川』の本流が流れているところに鎧堰という堰があり、北側の野津田地区に農業用水を供給していたのだといいます。
堰からあふれた水の放水路の跡が島の真ん中を南北に通っていて、そこだけ見ると幽玄な渓谷のような景色になっています。
当時の「鎧堰」で取水・導水していた流れは今もなお支流側に注いでいますが、『鶴見川』本流は堰直下で右に屈折せず、直線的に流れています。これは、蛇行が激しく暴れ川として知られていた『鶴見川』の河川整備の一貫で線形改善されたものです。
続く、、、
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