『フィラデルフィア』(94)(1994.6.27.みゆき座)
エリート弁護士のベケット(トム・ハンクス)は、エイズを宣告され、会社を突然解雇される。ベケットは解雇は不当な差別だとし、弁護士(デンゼル・ワシントン)を立てて訴訟を決意する。ブルース・スプリングスティーンの主題歌がアカデミー歌曲賞を受賞した。
エイズという病に対して偏見がないと言えばうそになる。輸血などで感染した人たちには同情を禁じ得ないが、麻薬注射や同性愛などの性交による感染は、乱れ切った現代の社会生活に対する一種の警告のように感じるところがあるからだ。しかも、バスケットのマジック・ジョンソンのように、乱れた性生活の結果感染してしまった者が、病と闘うヒーローになる風潮にも疑問を感じていた。
この映画は、そんなふうに感じる自分のような者にとっては、一種の啓もう映画であった。この場合、主人公への不当解雇から裁判を通して敵役となる、ウィーラー(ジェイソン・ロバーズ)一派=典型的な差別者たちが、自分自身の鏡だったのだ。
このように、単に同情するだけではなく、その横に反対し対立する側を置くことによって問題の核を知らせるという手法は、山田太一の脚本によるドラマとよく似ている。
その結果、エイズが日本よりも深刻な問題となっているアメリカの実情(理解と偏見の対立)を垣間見た気がしたし、社会や家族が、偏見を超えてこの問題を見つめ直す方向に変化していることもよく分かった。
つまり、たとえ感染経路がどうあれ、死と直面し、病と闘うことによって、本人も周囲も生きる意味を問い直すことになる。その姿が人の胸を打つ。だからジョンソンがヒーローになる、ということを教えられた。
例えば、エイズまん延の初期に作られたテレビムービー「早霜」(85)では、エイズになったゲイの息子(エイダン・クイン)を認められない父親(ベン・ギャザラ)の苦悩や迷いが印象的に描かれていたが、この映画の家族は、同性愛によって感染した息子(兄弟)の闘いをひたすら応援し、息子の恋人にも偏見なく自然に接している。両作の違いが、ここ10年の変化を如実に表していると思った。
思えば、フィラデルフィアはアメリカの独立宣言が公布された町であり、ギリシャ語では兄弟愛という意味を持つらしい。つまりこの映画のタイトルは、二重の意味で希望や愛を象徴しているのだ。
さて、この映画をここまでにしたのは、ジョナサン・デミ監督の演出力に寄るものなのか、だとすれば、彼のことを何でも撮れる職人監督として見直さなければならない。ハンクスの熱演はすごいが、できればこうした演技ではなく、彼の持ち味を生かしたものでアカデミー賞を取ってほしかった気がする。
いずれにせよ、ベトナム物の次は、こうしたタイプの映画が増えていくのだろう。その意味では、この映画はパイオニアと言えるのかもしれない。