『エイリアン:ロムルス』公開に先駆けてシリーズを復習
『エイリアン』(79)
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『エイリアン2』(86)
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/c4953c2f2c041b52c9f6c8c7dceac0e4
『エイリアン3』(92)(19992.9.27.日劇プラザ)
思えば、このシリーズとも随分と長い付き合いになる。オリジナルが公開されたのが79年だから、かれこれ13年もたっているのだ。その間“エイリアン”という聞き慣れなかった言葉は一般化し、オリジナルと2を監督したリドリー・スコットとジェームズ・キャメロンはヒットメーカーになり、最初はB級扱いだったオリジナルが今やこの手の映画の古典になっている。
そうした13年という年月の中で、唯一変わらなかったのが、シガーニー・ウィーバーがエレン・リプリーというキャラクターを引きずり続けてきたことだ。これは俳優としては大きなマイナスだとも考えられる。結局、どんな役をやっても、彼女の影には常にリプリーのイメージがつきまとう。
少し前の例でいえば、あまりにも『エクソシスト』(73)で演じたリーガンのイメージが強過ぎて結局消えていってしまったリンダ・ブレアの悲劇が思い浮かぶ。
だが頭のいいウィーバーは「私はそんなのごめんだよ」とばかりに、またまた作られることになったこの映画で、わざわざ共同プロデューサーという形を取って、自分なりの決着を付けることにしたのだろう。そしてそれは、ラストのリプリーとエイリアンとの“心中”という形で表現される。
つまり、フランシス・フォード・コッポラとアル・パチーノが『ゴッドファーザーPARTⅢ』(90)でマイケル・コルレオーネを抹殺したように、次々とシリーズ化される傾向が強い今のハリウッドにおいては、そのキャラクターを作り上げた者が自らそれを亡き者にしなければシリーズの呪縛からは抜け出せないのだ。
そうしたウィーバーの強い覚悟と、慣れ親しんだ役を抹殺するというしょく罪の念が反映されたのか、この映画は宗教色が強く、リプリーとエイリアンへの鎮魂映画の趣すら漂うのである。
そして、ここまでやれば、たとえ4が作られるようなことがあっても、ウィーバーはそれを笑って受け流せるのではないかと思う。まさしくタフな女性。その根性はすてきだ。
デビッド・フィンチャーという27歳の雇われ監督。よくやったと思う半面、アップやぼかしを多用して少々遊び過ぎたところが難点か。ただし、スコットやキャメロンのように今後大化けする可能性も感じさせる。
『クロコダイル・ダンディー2』(88)のコミカルな演技に注目したチャールズ・ダットンが今回は渋い演技を披露してくれた。期待のブラックアクター登場の感がある。
【今の一言】と書いたが、ウィーバーはクローン再生されたリプリーとして、ジャン・ピエール・ジュネが監督した『エイリアン4』(97)にも出た。予想通りフィンチャーはこの後ヒットメーカーになった。
『プロメテウス』(12)『エイリアン:コヴェナント』(17)
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