『スクープ 悪意の不在』(81)(1982.2.22.丸の内ピカデリー)
マイアミの港町で、労働組合のリーダーが失踪するという事件が起こった。FBI捜査官は事件の解決を焦り、港で働くマイケル(ポール・ニューマン)を犯人に仕立て上げる。その情報操作に引っ掛かり、スクープ記事を書いた記者のミーガン(サリー・フィールド)は、真相究明に乗り出すが、弁護のために書いた記事がマイケルの最愛の女性テレサ(メリンダ・ディロン)を自殺に追い込んでしまう。
久しぶりのシドニー・ポラック監督作だったが、結果は、残念ながらもう一つといったところだった。同じポラック作品の『コンドル』(75)と同じように、無実の男が、相手の勝手な思惑のために罠に陥れられる話だが、『コンドル』は秘密だらけのCIAが舞台だっただけに、別世界のサスペンスとして見られたが、この映画の場合は、新聞社が舞台なだけに、こちらもいろいろと考えさせられながら見てしまったのだ。
確かに、新聞による無意識の犯罪というのはあるのだろう。特に最近は情報が氾濫しているだけに、それを処理するのは大変だろうし、書いた後のことまで考えて記事を書くほどの時間も余裕もない。それに間違って書くことだってないとは限らない。けれども、それが恐ろしい結果を生むのである。
新聞が殺人犯と断定した男がいる。ところが、彼は無実だった。後で訂正してもそれでは済まない。万人が目にする新聞に、殺人犯として、顔写真入りで出てしまっては、取り返しのつかないイメージダウンである。ところが、書いた新聞には悪意がないので、罪には問えない。おまけに、事件に無関係な人物を記事にして自殺に追い込む始末…。
ここまでは、ポラックの新聞、あるいはマスコミが抱える矛盾に対する批判が感じられてなかなかいいのだが、この後展開する主人公の復讐劇が、どうにもいただけない。
一見、善人風なのに、実は頭が働く利口者で、最後は女性記者、捜査官、議員と、みんなひっくるめてぎゃふんといわせる。普通ならここで拍手の一つでも湧きそうなものだが、そうはならずに後味の悪さを感じさせられた。
実際、こんな目に遭ったら、この主人公のように、陰険に計算を立てて復讐するかもしれない。それは分かるのだが、ここまでやっていいのかと思わされた。自分も物書きの端くれなので、女性記者に同情させられるところもあったのだ。
新聞やマスコミ、ジャーナリズム批判をするなら、変な同情心が湧かないように、記者や新聞社をもっと憎らしく描いてほしい。この映画のような、中途半端な描き方をされると、はぐらかされたような気分になる。
例えば、黒澤明の『悪い奴ほどよく眠る』(60)のような、悪が勝つ映画でも問題提起はできるのだから。
【今の一言】今は自分が発信する側となった。この記事の「新聞」を「ネット」に変えても成り立つだろう。
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